『Lectures on Literature』Vladimir Nabokov,1980年。
以前は入手困難だった『ヨーロッパ文学講義』の改題文庫化。
「良き読者と良き作家」
あの有名な「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ」を含む評論。
トップバッターがオースティンなのはともかく、なぜか作品は『マンスフィールド荘園』。オースティンがどのように筋書きをコントロールするために死を扱っているか、登場人物の性格をいかに描写しているか、といったことが語られてゆきますが、鋭く面白くなってくるのはやはりディケンズの章からです。訳者による「クリスティアン・ネーム」という表記や「癪にさわらない」「画竜点睛をほどこす」という表現が気になります。
「チャールズ・ディケンズ」
まずは冒頭について、「この比喩は現実の泥と霧と、大法官庁の泥と霧とを結合している」(p.191)ことや、「shirking and sharking」「slipping and sliding」の頭韻(p.192)などを、さらりと指摘してみせます。
もちろん鳥籠(p.196)も比喩には恰好の題材ですが、ナボコフはミス・フライトの飼っている鳥を「ひばり=若さ、べにひわ=希望、ごしきひわ=美しさ」とまで断定します。
終盤では『荒涼館』の「構造」と「文体」が項目ごとに具体的に論じられています。長大な物語がすべてエスター一人の一人称で書かれていることを「最大の誤謬」(p.2657)とはちと手厳しい。その語りに関して、別の項目(p.265)では、その場にいないエスターが詳しく報告しているという事実から、ある結果を結論づけることができると指摘されており、語りの重要性が窺える箇所です。
オースティンの章でも筆を費やされていたように、ナボコフは「文体」をかなり重視しているらしく、「形容語句」の項目では、猫の緑色の目と蝋燭の光に関する鋭い指摘も見られます。
「ギュスターヴ・フロベール」
これまでの二人とは違い、フロベールはフランス人なので、英訳の訳語の問題にも触れられています。「耳さき」ではなく「耳たぶ」、蠅は「這う」のではなく「歩く」(p.324)、「甲虫」ではなく「円花蜂」(p.338)、半過去の習慣の用法(p.397)など、適切な訳語を選択できるのも精読したからこそでしょう。
p.344では、「『ボヴァリー夫人』を写実主義ないし自然主義的作品と呼ぶことができるか? 疑わしいことだと、わたしは思う」と、文学史に真っ向から反論。妥当なことをすぱっと断言してくれるのは小気味よい。
その点では、レオンの芸術論と無知なオメーの知ったかぶりを、「偽りの芸術と偽りの科学が会する」のであり、レオンのエンマの会話は皮肉(p.351)だと指摘する文章も同様。
ボヴァリー夫人論の後半は、ナボコフが「対位法的手法」と呼ぶものに多く費やされています。
陳腐な役人の会話と、陳腐な恋物語調は対立するものではなく、「色の上に色を重ねて描いている」(p.367、p.358)ことが確認されています。
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