『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』片岡義男×鴻巣友希子(左右社)
片岡義男と鴻巣友希子が翻訳について対談したり名作の一部を訳し合ったりしています。この手の本はひどいものだとただの思い出話だったり抽象論だったりするのですが、お二人とも訳した対象の文章に即して話し合っているので、きちんと翻訳技術論であり作品論でした。
「はじめに」では昔の翻訳事情と現在の翻訳事情の違いなどがテーマになっています。片岡氏が自身の「あてはめ翻訳」について話していて、一般的な直訳とは違うのですが、日本語を英語に訳したものを日本語に訳し直してもほぼ同じになるのを見ると、確かに当てはめてはいるのでしょう。中村保男の『英和翻訳表現辞典』のようなものでしょうか。「reach」には「見てる」の意味はないけれど文脈によってはそう訳すしかない、というような。
「その1 ジェイン・オースティン」
オースティン『高慢と偏見』の冒頭が取り上げられています。系統立った翻訳の勉強をしたことのないわたしには、Mr. とMrs. が機械的に「~氏」「~夫人」ではないのが言うまでもない当たり前のことだということが、軽いショックでした。鴻巣訳は「truth」にこだわるあまり、冒頭がやや読みづらくなっていると感じます。一方で登場人物の性格にまでずかずかと踏み込んだ結果、「そんなことは聞いてない」と夫の台詞をきつめに訳すなど、キャラクターがわかりやすくて読みやすそうなのは鴻巣訳です。
「その2 レイモンド・チャンドラー」
チャンドラー『長いお別れ』の冒頭です。チャンドラーの一人称というのが、時間や人物を行ったり来たりのうえに、おかしな譬喩があったり省略したりの面倒臭い文章だというのがわかります。既訳を(というわけでもないのですが)「英語の構文を理解しないままに意味を取ろうとしている」とばっさりです。
「その3 J・D・サリンジャー」
この回では文章そのものではなく、ほぼ註釈の是非のことだけ話されていました。片岡氏は潔癖なまでに註釈など必要ない派で、登場人物の身につけている服が高級かどうかでその人のキャラクター理解の助けになると思われる場合でも、にべもありません。
「その4 L・M・モンゴメリー」
翻訳について、「伝えられるのが七十五パーセントだと決めたら、残りの二十五パーセントは意に介さないことにするのです。七十五パーセントで充分に伝わります」というのが片岡氏の主義だということがわかりました。前回の註釈についての主張もそれで腑に落ちます。
「その5 トルーマン・カポーティ」
この回ではより文脈に即して、この作品で描かれているvillageは日本の「村」より広い、日本語の「小高い」では丘のように高いところがすぐに終わってしまうような感じがするので「小高い平原」ではなく「台地」にした、far eastが「極東」だからといってFar Westを「極西部」と書いてどれだけ伝わるか、など、これまでになく訳語の選択について具体的な内容が書かれていました。
さらには「見ているからこそviewなのです。ですからその言葉を、僕は訳しませんでした」も卓見です。
小説の文章は楽譜と同じと述べる片岡氏に対し、「片岡さんには「不穏な感じで」という楽想記号がはっきりと見えるのですね」と言っている鴻巣氏の言葉に膝を打ちました。なるほどそれでこれまでの片岡氏の発言にも改めてうなずけるところがあります。
「その6 エミリー・ブロンテ」
鴻巣氏には『嵐が丘』の翻訳があるのですね。三人称の感情を日本語では「彼は悲しい」ではなく「彼は悲しそうだ」にしたくなる等の、日本語についての話もありました。
「その7 エドガー・アラン・ポー」
対談部分が6ページしかなくあっさりしています。片岡氏がポーの文章を「愚痴を聞いているような感じ」と言っているので、気が滅入ったのでしょうか。
「おわりに」
話は翻訳に留まらず、日本に於ける英語教育にまで及んでいます。「がらんどう」や「シクシク痛む」という日本語をどう説明するかという問題からは、言葉というものがいかに感覚的なものと結びついているかに気づかされます。
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