『Among Others』Jo Walton,2011年。
イギリスがナチスに降伏した時代を描いた名作・ファージング三部作の著者による、ヒューゴー賞・ネビュラ賞・英国幻想文学大賞受賞作です。
まだ邦訳が出ていなかったころに、SFマガジンの英米受賞作特集で紹介されていたのを、SFファンの(そして読書好きの)ハートをぎゅっと鷲づかみにしてしまいそうな内容に、翻訳を楽しみにしていたものです。
その期待は物語が始まる前から満たされることになります「この本で描かれるすべての出来事は虚構であり、(中略)一九七九年という年も、十五歳という年齢も、地球と呼ばれる惑星も空想の産物にすぎない。」という謝辞にはしびれました。思えば〈ファージング〉三部作のエピグラフにもユーモアがありました。
そして序章。幼いころの主人公が双子の妹と工場を訪れるシーン。二人が口にする、叶わなかった魔法の内容は、目の前にその光景を思い浮かべるだけで圧倒されそうな壮大なものでした。「工場が崩れ落ちて、神聖な大地が現れると思ってた」「わたしは、ルリハコベの花があの黒い水に溶けて大きな波を起こし、その波が工場を呑みこむと思ってた」
なぜ二人は魔法を使えると思ったのか。どうやら母親が関係しているようで、この母親というのが、かなりのクセモノのようです。「ぞっとするほどの悪意を感じさせるという点で、実に母らしい発想だった」(上p.15)。その後も「特に母から教えられた情報は、裏が取れないかぎり信用できなかった」(上p.25)と書かれていたり、父親と主人公の二人とも母親から逃げて来たりといった事実が少しずつ明らかになるにつれて、母親の個性の強さにどんどん引き込まれていきます。
本書の特徴の一つが、こうした視点や前述の序文に表われているような、シニカルな笑いです。この種の笑いが好きな人には、それだけで充分に楽しめるでしょう。
もう一つの特徴が、序章に描かれたようなファンタジックだったりノスタルジックだったりビブリオテカルだったりする場面の数々です。
上巻31ページから始まる、父親の蔵書についてのとめどもない会話を読むと、SF好き本好きであるわたしなどは、嬉しいようなこっぱずかしいような複雑な気持が湧き上がりました。
主人公は魔法を「偶然」と呼びます(上p.65)。その一方で、どうやらこの世界には実際に魔法もフェアリーも存在するようです。
それに関連して気になるのは、やはり母と主人公の過去でしょう。「杖をついて歩くことになったのは、実の母が呪いの人形に針を刺したからであることを知っていた(またはそう信じていた)」(上p.89)「老兵の体に残る名誉の負傷の痕と同じように、この脚を大事にすべきなのだろう」「わたしも世界を救った。というか、救った気になった」(上p.103)。果たして何が起こったのか(あるいは起こったことになっているのか)。
上巻も終盤に差し掛かり、それまで読書という一人きりの娯楽に耽っていた主人公は、魔法で願ったこともあり、図書クラブという仲間を得ることになります。たったこれだけで、何かが大きく変わったような雰囲気になるのですから、改めて共通の仲間とは大事なものですね。
それだけに下巻になってから男女の話になってしまったのはやや残念。
個人的には、訳者があとがきで書いている、「モリの母は魔女などではなく、フェアリーも魔法も(もしかすると双子の妹であるモルさえも)存在せず、ただ、自分を虐待する母の元から逃げ出した少女が、現実と折り合いをつけていくために、実際に起こった出来事の上に空想の産物を書き加えていたという可能性」という読みがしっくり来ました。というか、「わたしたち」という人称や、ここにはいないモルの名前だけが繰り返される冒頭の時点では、モルというのは絶対にいわゆる「空想の友だち」だと思っていましたから。
アメリカの小説を読んで「Jr.」を「ジェイアール」という名前だと思ってしまうモリが可愛かったです(上)P.290。
15歳の少女モリは精神を病んだ母親から逃れ、一度も会ったことのない実父に引き取られたが、親族の意向で女子寄宿学校に入れられてしまう。周囲に馴染めずひとりぼっちのモリは大好きなSFと、自分だけの秘密である魔法とフェアリーの存在を支えに精一杯生きてゆこうとする。1979-80年の英国を舞台に、読書好きの聡明な少女が秘密の日記に綴る、苦しくも愛おしい青春の日々。ヒューゴー賞・ネビュラ賞・英国幻想文学大賞受賞作。(上巻カバーあらすじより)
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