『それはまだヒミツ 少年少女の物語』今江祥智編(新潮文庫)★★★★☆

 以前に新潮文庫から出ていた『新潮現代童話館』全2巻から、抜粋再編集したもの。親本の目次を確認してみると、「黄色い目の魚」佐藤多佳子、「ぼくは海賊」寺村輝夫、「ジョーカー」あまんきみこ、「キクちゃん」角野栄子、「コンクリ虫」皆川博子、「鮎」池沢夏樹、など、本書から洩れた作品にも気になるタイトルが……。
 

「グッド・オールド・デイズ」石井睦美 ★★★★☆
 ――ぼくのはじめての家出は、まだ幼稚園に通っていた頃だった。男四人ばかりの末っ子だったぼくは、おふくろに叱られ、おばの家に向かった。それからぼくは、何かあるとおばの家に居候した。おばのある種のそっけなさが、だんだんと好ましく感じられた。

 父母との疎外、にもかかわらず、おばとの距離のある関係、というのが現代的です。当事者の年齢に関係なく人は死に、人は年齢を重ねます。けれどさすがに子どもに「グッド・オールド・デイズ」はないと思いますが。
 

「セカンド・ショット」川島誠 ★★★★☆
 ――部活も引退した中学三年の十月、なぜか担任に呼び出されてしまった。「クラス対抗のバスケット、タカオ君、出してよ」。タカオっていうのはどんくさい。担任によると、バスケ好きの社長がいて、そこにタカオの就職が決まりそうなんだそうだ。

 思春期のエグさとイヤラシさを描くことにかけては定評のある著者のこと、バスケに誇りを持っている人間の自信に満ちた語りには吸引力があり、語り口がおっさん臭いという著者特有の欠点も補って余りあります。結末は余裕に裏打ちされた優しさ(?)でしょうか。
 

「なんの話」岡田淳 ★★★★★
 ――図書室のかぎを返しわすれたぼくは、いそいで学校に戻った。すると放課後の遅い時間なのに、赤いフードをかぶった女の子がいた。それから鉄棒の上をひょこひょこ歩いているのは……どうみてもタヌキ……それもぶんぶく茶がまだった。

 昔話の世界からキャラクターが飛び出してくる……といったいかにもファンタジーといった発端から、脇役・主役という問いかけを経て、最後には人生についてコメントする教頭先生があまりにもカッコイイ。
 

「亮太」江國香織 ★★★★☆
 ――まさはるは夏が嫌いだった。プールは嫌な夏の象徴だ。ふと見ると見馴れない男の子が立っていた。その子はプールの壁のかくしドアをあけて中に入っていった。少年は亮太といった。「八年前にさ、死んだんだよ、おぼれて」。まさはるが泳げないと知って、亮太は笑った。「泳げるようにしてやるよ」

 健全な肉体を求める周囲と本人とのあいだにも、ふたたび生きたいと願う死者とのあいだにも、とても大きな温度差があり、その姿には、世間的な幸せからははずれてしまっているマイナーポエットのような哀しみがありました。
 

「オーケストラの少年」阪田寛夫 ★★★☆☆
 ――「ちょっと、そこ閉めてえな」。地下鉄の窓から外を眺めているおじいさんを、おばさんが注意していた。気になったぼくはたずねてみた。「おじいさんはなぜ外をのぞいていたんですか」「のぞいてたんやない。聞いてたんや。わしの作った曲」

 おじいさんはきっと、映画自体がまぶしかった時代に生きていたのでしょうね。その映画で見た、さらなるあこがれの対象オーケストラ。けれどおじいさんの口から出てくるのは大ぼらばかりで、大阪には実際にこんな人ばかりなんだろうなあ、という勝手なイメージが思い浮かびました。
 

「先生の机」俵万智 ★★★★☆
 ――飯山先生の机はすごい。「先生、机のそうじとかしないの? 片づけないの?」と言うけれど、先生はニコニコしながら笑うだけだ。お母さんはそれを聞いても、「あんまり机のこと、先生に言っちゃだめよ。飯山先生には、まだお嫁さんがいないの。だからいろいろと大変なのよ」

 著者の小説は初めて読みましたが、日常の何でもない出来事はやはり得意とするところなのでしょう。この作品を短歌でならどう表現したのか、と想像がふくらみます。お嫁さんの話題がレッドヘリングになっているので、結末も鮮やかです。
 

「いまとかあしたとかさっきとかむかしとか」佐野洋子 ★★★★☆
 ――風が吹いて、木の葉がきらきらゆれていました。「お父さん、風は見えないけど見えるね」「ふみ子は詩人だな」「シジンてなに?」。おひるはオムレツでした。「おなじ玉子なのにゆで玉子味がちがうね。なんで?」「まぜるからよ」お母さんはめんどくさろうに言いました。

 子どもの発する「なんで?」 それを忘れてしまった大人が思い出す――のではなく、子どもの視点から親の苦労に気づくことになるのが、この作品のちょっと変わったところでした。時間のない世界の恐ろしさ。
 

「二宮金太郎」今江祥智 ★★★★☆
 ――金太郎というのは祖父がつけてくれた名前である。両親は口をとがらせたが、祖父は「金次郎じゃない。金太郎なんだぞ」といばった。次男の銀次のアイデアで、本を読んでいる二宮金次郎像が二宮書店に飾られるようになってからというもの、友だちは金太郎のことをキンジローと呼ぶようになった。

 本書のタイトル「それはまだヒミツ」は、編者である著者のこの作品から採られていました。名前の縁で結ばれた小さな恋物語です。いくつになっても、かわいいヒミツのある夫婦っていいですね。
 

「ハードボイルド」長新太 ★★★★☆
 ――カアサンがとうめいにんげんとけっこんしてうまたのがボクだった。だからボクはうすくみえる。トウサンがみえないから、うちではカアサンがはたらいている。「ほんとうは、せかいいちのかねもちになれるんだけど、グッとがまんしてるのよ」とカアサンはいいます。

 人間と透明人間のハーフである半透明のボクという設定もさることながら、ことあるごとにハードボイルドにこじつけるハードボイルドファン(?)のせんせいが可笑しかったです。
 

主日に」長谷川集平 ★★☆☆☆
 ――父が東京から故郷の長崎に戻り、私も長崎の教会に行くようになった。東京の教会とは違うこともあって戸惑うこともあります。長崎では聖体のパンを口で受け取る人がほとんどです。ミサを口癖みたいに口にしていいんでしょうか、と以前聞いたら、いいのいいの、と神父様はおおらかに笑いました。

 子ども向けの童話ではありませんし、語り手が子どもかどうかも怪しいところです。当たり前だと思われていることに疑問を素直にぶつけるところは確かに子どもの特権だとは思いますが。大失恋をきっかけに帰郷した父親のことが心配で、帰郷につきあった娘の、眼差しの温かさには、心が洗われるようです。
 

「親指魚」山下明生 ★★★☆☆
 ――六年生の夏休み。夜の塾の帰りだった。わたしが友だちと電車に乗っていると、「ねえ、あの人、幸子のところのお父さんじゃない?」。見ると、父が座席の柱で背中をかいて、天津甘栗をむちゅうでたべていた。「ちがうよ」。一週間後、父が蒸発した。「水槽の魚たちをよろしく」という置手紙を残して。

 北村薫のアンソロジー『謎のギャラリー』で読んだことがあります。二篇、いえ「ハードボイルド」も入れると三篇続けて、父親の悲哀が描かれていることになります。でも単なる父親の話ではなく、最後の最後に親子の話にきちんと着地しているんですよね。
 

「原っぱのリーダー」眉村卓 ★★★☆☆
 ――小学校三年生のときだった。家の近所にできた広い空き地には、立入禁止の札がぶらさがっていた。何もかも普通というぱっとしない原田というクラスメートが、立入禁止の札を無視して、上級生と一緒に空き地で遊んでいた。

 SF作家の手になるものなので、やはりちょっとSFっぽい結末を迎えます。類話を現代風にアレンジしたといったところでしょうか。
 

「きみ知るやクサヤノヒモノ」上野瞭 ★★★★☆
 ――学校から帰ってくるなりママは、一枚の紙切れを突きだした。「あーあ、恥かいちゃった。何よ、これ。『ぼくには本当のおかあさんがいません。今いる母は継母です。ぼくのおとうさんは植物人間です』」。そのとき声が聞こえてきた「着陸します。着陸許可OK?」そいつは蚊ではなく蚊星人だと名乗った。

 母子家庭の子と母それぞれが心に抱える問題を、蚊(星人)を媒介にして明らかにしてゆくという異色作。「お皿やお鍋」ではなく、蚊(星人)であり作文であり、童話であったということなのでしょう。
 

「ばく」夢枕獏 ★★★★☆
 ――いやな夢を見ていた。友人を殺そうとする夢だ。友人の彼女を襲っている夢も見る。彼女とは半年だけつきあっていたことがある。八月に入ってもまだ夢を見る。老人の足元に奇妙なものが見えた。その晩から、老人の足元にいた獣は夢の中に姿を現した。

 夢を食うといえば聞こえはいいけれど、悪夢という心の醜い部分が食われて集まり肥大化してゆく……という、著者らしい伝奇ホラーめいた展開にぞくぞくしました。
 

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