『少年十字軍』マルセル・シュオッブ/多田智満子訳(国書刊行会『マルセル・シュオッブ全集』)★★★★☆

『少年十字軍』(La Croisade des enfants,1896)

 時を同じうしてあらゆる地域の村々町々より、児どもらが、走りゆきたり。何処へ行くやと問はるれば、イエルサレムへ、とこたへぬ。今日なほ、かれらが何処へたどりつきしやつまびらかならず。かれら、出奔の理由を問はれては、知らずとこたへぬ。同じき頃、無言のまま、村々町々を駆けめぐる裸形の女どもありき。

「托鉢僧の語り」(Récit du Goliard,1985)
 ――子どもたちは白い蜜蜂の群れのように街道にみちあふれておった。どこから来たのかわからぬ。年歯もゆかぬ巡礼たち。かれらはイエルサレムを信じて折る。わしが思うにイエルサレムは遠く、主はわれらが身近におわします。

 聖地を目指して進む白い集団は、すでに少年たちとは違う信仰を持っている托鉢僧からは、それ自体が尊い存在に思えたようです。さりながらも、神は聖地ではなく信仰のうちにあるのでしょう。
 

「癩者の語り」(Récit du lépreux,1985)
 ――わたくしは白い頭巾で頭をつつみ、鱗のある鉛色の生きもののように手が眼の前にはしりまわる。御救い主はわたくしの蒼白い罪業を贖うてはくだされなんだ。

 無垢にして無知な少年が、白い存在に主を見ます。無垢というよりは無知でしかありませんが、癩病者は救われたのかもしれません。
 

「法王インノケンティウス三世の語り」(Récit du Pape Innocent III,1985)
 ――主よ、前代未聞の宗派が生じつつあります。加うるに、いかなる妖術に惑わされてか、七千人もの小児が家からさまよい出ました。臣下が問いただしたところ、聖地回復に行くとこたえる。海は渡れまいにと言えば、海は二つに分けるとこたえる。いたましいかな。これらの無垢なる者たちはみな憂き目に遭おう。

 無垢なる少年十字軍について「あの子らはわれらを恥入らせる」と語ったと云う、同じく無垢(インノサン)なる名を持つイノケンティウス三世による、言い訳めいた必死の祈り。無垢という名前をつけられても、少年や托鉢僧や癩病患者のようにはピュアではいられない立場というのは、考えてみれば哀れです。
 

「三人の児の語り」(Récits de trois petits enfants,1985)
 ――ぼくら三人、アランとドニと、口の利けないニコラ、ぼくらはイエルサレムをめざして旅に出た。人食い鬼やお化け狼に出あう、と聞かされていた。そんなのは嘘っぱちだ。主はすべての幼児を御墓へみちびいてくださるだろう。

 ここで初めて少年たち自身の目から少年十字軍が語られます。まさに無垢、信仰以外、恐れも誇りもありません。
 

「書記フランソワ・ロングジューの語り」(Récit de François Longuejoue, clerc,1985)
 ――本日、わが親方なる回船業者の店に大勢の子らがきて、聖墓に詣でんがため海を渡してほしいと頼んだ。次のことを言っておかねばならぬ。第一に、余所者を連れ出すのはのぞましいことだ。第二に、今年が稔りのまずしいことを商人たちはよくこころえている。第三に、ローマ教会はこの大群に少しも感知していない。

 いよいよ少年たちは海を渡りますが、見て見ぬふりと言いますか、良くも悪くも信仰に絡んでいたこれまでの語りとは違い、ここでは計算高いところもある大人が描かれています。
 

「回教托鉢僧の語り」(Récit du Kalandar,1985)
 ――神に御栄えあれ! かれらはエジプトから来たそうな。あの子らは悪魔につかれて、イエルサレムへ行くために海を渡ろうとした。助けもなく食糧もなく、途中で死んでしまったかもしれぬ。かれらはみな無邪気《インノサン》だ。かれらを見るやわしは地に身を投げ、主をたたえた。

 キリスト教徒だけではなく、イスラム教徒の視点も導入しているのは、フェアと言えましょう。とはいえ、少年たちの無垢なることをいっそう際立たせているにすぎないのですが。
 

「幼いアリスの語り」(Récit de la petite allys,1985)
 ――もうこれ以上あるけないの。マルセイユのあの悪者に連れてこられて、わたしたち、燃えるような国にいる。他の子たちは海のむこうのイエルサレムの町のこと、主イエズス様のことを話してくれたわ。ユスタースは御声に従うために家をぬけ出してきたの。目が見えないけれど、夜はしずかだから御声がきこえるのね。

 白から始まったこの物語も、「白は終わりのしるし」と書かれ、終わりが近づいて来たようです。「三人の児らの語り」に登場したアリスとユスタースが再登場しています。
 

「法王グレゴリウス九世の語り」(Récit du pape Grégoire IX,1985)
 ――ここに海がある。青く無心に見えて、すべてを貪りつくす海。予は眼もて汝に訊ねる。地中海よ、わが子らを返せ。なにゆえに汝はかれらを奪い去りしや?

 海に向かって語りかける法王という荘厳な語りにて物語は幕を閉じます。そして嗚呼、確かにそれも白いのでした。
 

  


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