『人形 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子訳(創元推理文庫)★★★★☆

 『The Doll and Other Stories』Daphne du Maurier,2011/1980年。

 デュ・モーリア死後に再発掘された短篇と、初期の短篇からなる短篇集で、書誌情報がいっさい不明ですが、どうやら完全な日本オリジナル短篇集というわけではなく、2011年に出版された初期短篇集『The Doll』全篇に、1980年出版『The Rendezvous and Other Stories』所収の「Angels and Archangels」一篇を加えたもののようです。
 

「東風」(East Wind,1926/1980)★★★★★
 ――シリー島の百マイル西に、セント・ヒルダ島はある。人口は七十人を超えたことがない。ときおり島民の誰かが本土をめざし、外界の話を持ち帰ると約束して出航したが、それっきり戻らなかった。ごく稀に島を訪れる船も、来るのは一度限りで、二度と通らないのだ。漁労長ガスリーは妻のジェインと子供のように暮らしていた。「東風が吹きだした。あの鱗みたいな雲。大風が来るぞ。船に注意しろよ」

 1926年に執筆され1980年の『Rebecca Notebook』に収録された最初期の作品です。これを十九歳で書いたというのですから天才としか言いようがありません。現実離れした離れ小島に吹き込んだ外界の風は、流行り病のように瞬く間に島の秩序を破壊します。風に囁かれて、快楽は言うに及ばず悪徳にすら陶酔したように突き動かされてしまう場面には、眩暈を感じました。風が通りすぎて熱病は去り、そこで初めて悪夢だったと気づくのでしょう。
 

「人形」(The Doll,1928/1937)★★★★☆
 ――何か感じられたなら、男に愛されるとはどういうことか彼女に教えただろう。そう、男にだ。つらいのはこの空虚感だ。レベッカレベッカ。最初はスタジオだった。外は雨だったことを覚えている。その姿は小妖精《エルフ》のよう、少年のようだった。金曜日、ついにレベッカを訪ねた。「わたしは恋をしたことがないの」「でも君は何もかも経験しているような素晴らしい演奏をするじゃないか」

 1937年刊行の『The Editor Regrets』なるアンソロジー収録作が近年発掘されたものです。タイトルからもわかる通り、人形を恋人にしている女性の話……というよりは、そのレベッカという名の女性に失恋して転げ落ちてゆく語り手の話、という方が正確でしょう。恋した女性の狂気の愛に触れて、正気を失いつつある男性の、不完全な手記という、三重に信頼できない語りは、「東風」の素朴な語りと比べると試行錯誤の跡が窺えます。注目すべきはレベッカという女性が登場することです。レベッカ、という名前はデュ・モーリアにとって魔性の名前だったのでしょうか。
 

「いざ、父なる神に」(And Now to God the Father,1929)★★★★☆
 ――聖スウィジン教会の牧師、ジェイムズ・ホラウェイ師は、鏡に映った自分の姿に満足した。女たちは牧師を崇拝した。男たちは牧師が意外にも楽しいやつであることを認めた。若いクランリー卿が女性問題で相談に来ると、自分も若い頃はいろいろと経験したからよくわかっている、と思わせた。「その娘の問題はまかせておきなさい」。それから民主党候補者と食事をし、障碍者施設で講話をした。

 母方の親戚であるウィリアム・カミンズ・ボーモントが編集長を務める雑誌『The Bystander』1929年5月号に掲載された作品です。俗物である牧師による、人心掌握と出世術。言動のすべてに、確たる効果を狙った意図があります。こういう人が牧師だったり教師だったり政治家だったりすると、ちょっと怖い話にもなりそうでもありますが、ホラウェイ師は徹底的に通俗のままでいてくれます。
 

「性格の不一致」(A Difference in Temperament,1929)★★★☆☆
 ――彼が知り合いと出かけると彼女は不機嫌になる。「だって仕方ないだろう」。なぜこの人は率直になれないんだろう? お前といるだけじゃ満足できないと認めればいいのに。だが会食は苦痛だった。こんな連中には会いたくない。大事なのは彼女だけだ。

 同じく『The Bystander』1929年6月号に掲載された作品。思ってもみないことを口に出してしまったり、不必要に尖った態度を取ってしまったりといった、あるあるネタのスケッチです。
 

「満たされぬ欲求」(Frustration,1927-1930)★★★★☆
 ――彼は結婚の許しを請うた。「扱えるのはスパナだけ。それで娘を養えるのか?」「僕は――」「娘ももう二十四。好きにすればいい。結婚式の費用は払ってやろう。だがあとは一ペニーもなしだ」海辺のホテルに行く金がないため、ハネムーンはテントだった。夕食後、二人は一行に出てこない月を待った。雲が駆け抜け、疾風が襲った。

 1955年に刊行された『Early Stories』収録作。愛しかない二人の悲哀に満ちた、けれどちょっと笑いを誘う新婚初夜が描かれています。やることなすこと裏目に出てしまい、前途多難、ですがこの二人なら、何とかうまくやっていきそうな気もします。
 

「ピカデリー」(Piccadilly,1927-1930)★★☆☆☆
 ――女は椅子に座って脚をぶらぶらさせていた。「つまり新聞記者ってことかい? じゃあよく聴きなよ。ひとつ話をしてあげる。ある意味じゃ、何もかも迷信のせいなんだよ。そのうち、あたしはジムに出会った。いつか教会につれていってくれると信じていたよ。ところがジムは泥棒だったのさ。だけど彼なしじゃ生きていけなかった」

 元掏摸の女の一人称による思い出語り。要所要所で迷信によって軌道を変えられてゆく女が、男に騙されて転がり落ちてゆく様子を描いた一代記ですが、よくある話の域を出ません。
 

「飼い猫」(Tame Cat,1927-1930)★★★★☆
 ――大人になったんだ。これからは寄宿学校の日々は霞み、パーティーを楽しみ、シャンパンだって飲むだろう。マミーだって娘を自慢に思うはずだ。姉妹みたいになるに違いない。それにジョンおじさんもいる。本当の親戚ではないけれど、親戚も同然だ。寄宿生の一人は「あなたのお母さんの飼い猫」と言っていたっけ。なのにマミーとジョンおじさんは彼女を変な目で見た。

 お洒落をして垢抜けて大人みたいに振る舞うことが大人になる条件だと思っていた、うぶな女の子が、家族の現実という、とても嫌な形で、本当の大人の世界を知ることになります。相手の態度が同じでも、受け手の意識の違いによってその受け取り方も違ってくるという、精神的な成長の瞬間が鮮やかに切り取られています。
 

「メイジー(Mazie,1927-1930)★★★☆☆
 ――メイジーは動くのが怖くて、じっとあおむけに横たわっていた。流感にかかったあと、ドリーはこんな症状に襲われた。そしてあっと言う間に死んでしまった。ああ、ちくしょう! 通りを歩いていると、みすぼらしくなったノーラに声をかけられた。「何があったの?」「あたしたちみんなに、遅かれ早かれ起こることさ」

 同じくメイジーという名前の娼婦が登場する「ピカデリー」は、無理して背伸びして娼婦の世界を描こうとしているように見えましたが、この「メイジー」は同じく娼婦を題材にはしていても漠とした日常的な不安を描いている分だけ、無理のない描写になっていました。
 

「痛みはいつか消える」(Nothing Hurts for Long,1927-1930)★★★☆☆
 ――ドレスはクリーニングしたて。髪も昨日セットしてある。じっと見つめる彼の顔が目に見えるようだ。料理は彼の好きなものにしよう。けれど時間になっても彼は現れない。たぶん時計がずれているだけ。

 本書のなかでは「性格の不一致」と同様、すれ違いの決定的な瞬間に気づいてしまった恋人たちが描かれていますが、こちらの作品の場合は、女性側が一方的に恋する乙女気質であるように見える分だけ惨めです。
 

「天使ら、大天使らとともに」(Angels and Archangels,1945)★★★☆☆
 ――ホラウェイ師は六週間にわたって教区を副牧師にあずけざるを得なかった。戻ってみると教区はさまがわりしていた。常連の信徒は抗議の手紙を書いた。ついにホラウェイ師が「君のやっていることは俗受けする“芸”」だと副牧師を諫めると、「貧しい者たちは娯楽を求めて教会に来ているのではなく神について知りたがっているのです」と反論された。

 1945年刊行『The Rendezvous and Other Stories』収録作で、「いざ、父なる神に」のジェイムズ・ホラウェイ牧師が再登場します。俗物なりに才能にあふれ人生を謳歌しているホラウェイ師が自分の生活を守るために、商業キリスト教会という秩序を破壊しようとする敵を弾圧します。愛すべき小物という感じだったホラウェイ師がわかりやすい悪人に成り果てていました。
 

「ウィークエンド」(Week-End,1927-1930)★★★☆☆
 ――金曜の夕方、車で郊外に向かうとき、ふたりはほとんど口をきかなかった。言葉など交わせばこの完璧な調和が損なわれる。ふたりはまったく同じ気持ちだった。「マウシーは水浴びにいきたいな」と彼女は言った。「フーシーもだよ」。「ボートに乗せてくれる?」

 成田離婚の話ですが、恋人たちがいちゃいちゃしているのがただでさえ痛々しいのに、さらに三十路を過ぎているという事実によって痛々しさが飛び抜けたものになっています。最初と最後の一文の対比がおしゃれです。
 

「幸福の谷」(The Happy Valley,1932)★★★★☆
 ――彼女はその谷をよく夢のなかで見て、大きな安らぎを感じた。彼女は何かを待っているのだ。あの夢のなかのようなものを。彼の最初の言葉はこうだった。「怪我はないよね? 車に向かってまっすぐ歩いてくるんだもの」。彼女は目を瞬いて彼を見返し、なぜわたしは路上であおむけなのだろうと考えた。彼との会話はお定まりのものだったが、その夜はきわめて鮮明にあの谷が見えた。

 週刊新聞『The Illustrated London News』1932年クリスマス号に掲載された作品。夢見心地な主人公が漠然とした幸せな将来像をつかむまでの物語で、少女小説の一つの型が、夢見る夢子な少女というよりは、夢と現が渾然一体となった幻視体質を持つ一人の女性の視点で書かれていました。
 

「そして手紙は冷たくなった」(And His Letters Grew Colder,1931)★★★☆☆
 ――親愛なるミセス・B。私はあなたのお兄様とご懇意にしているのですが、今度の休暇のおりにチャーリーの近況をお伝えできればと思います。X・Y・Zより/親愛なるA。本当にAとお呼びしてよろしいのでしょうか。本当に楽しかった。X/ダーリン、昨夜あなたは僕をものすごく幸せにしてくれました……。

 月刊誌『Hearst's International Combined with Cosmopolitan』1931年9月号に掲載されています。書簡体のみから成る作品で、しかも男性側の手紙のみで造られているのに、きちんと男女のやり取りが伝わってくる構成こそ際立っているものの、内容はこれまで収録の他の作品と大同小異の男女のすれ違いでした。
 

「笠貝」(The Limpet,1959)★★★★☆
 ――わたしのことを無神経な女と呼べる人はいないはずです。他人の気持ちを無視できるようなら、廃残の身にならずにすんだことでしょう。いつでもエドワードと結婚できたけれど、彼のためを思って過激なまねをしなかったんです。奥さんがあるし、仕事があるんだから。ケネスが去ったときも、文句を言ったりはしませんでした。彼の落ち着きのなさは、わたしの出不精な性格と相容れない、と言っただけです。

 テーマが似ているからなのか、なぜかこの作品だけ後年の『破局』から採られた一篇です。異色作家短篇集破局』にも「あおがい」の邦題で収録されています。いま読むとストーカーの一人称みたいでえらく怖くて気持ちが悪く、こうした悪意を引いた視点で描いています。この作品と比べるとなるほど他の作品はまだ可愛いげがありました。

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