『粘土の犬 仁木悦子傑作短篇集』仁木悦子(中公文庫)★★☆☆☆

 なぜか中公文庫から日下三蔵編のミステリ短篇集がいろいろと出ています。第一短編集『粘土の犬』と第二短篇集『赤い痕』の合本。
 

かあちゃんは犯人じゃない」(1958)★★☆☆☆
 ――とうちゃんが昼寝している間に、昨日どなっていたシャボンを見つけ、ズボンのポケットにすべりこませた。とうちゃんが起きてこないのでそっと六畳をのぞいてみると死んでいた。「泥棒だ!」。かあちゃんが警察に連行されてしまった。警視庁の刑事を名乗る男からたずねられ、手がかりになるような見慣れないものを探していると、男が現場に戻って来た。

 ウールリッチ「ガラスの目玉」に影響されて書いたという子どもの一人称サスペンス。正直にいうとこの子はあんまり可愛くない(^^;。小学生じゃあるまいし、大の男の鉛筆に持ち主の名前が書いてあるというのがよくわかりません。時代や職種によっては当たり前のことなのでしょうか。
 

「灰色の手袋」(1958)★☆☆☆☆
 ――兄がクリーニング店から持って帰って来たトッパーは私のものではなかった。交換しにクリーニング店に行くと窓ガラスが破られ、炊事婦のおばさんが縛られ刺し殺されていた。金庫からは八十万円が盗まれていた。兄がやり取りした店員が犯人か。一方電気屋が故障した洗濯機を引き取りに来たとき、窓から手が出て「物置にあるから勝手に持っていけ」と言われた。その手には灰色の手袋が嵌められていた。

 仁木兄妹もの。手袋による利き手の判別、手袋の穴を隠す包帯による計画性の有無、犯人の着ていた紫の上着の正体など、犯人当てのためだけのロジックですが、それもゴリゴリのロジックではなくどうとでも取れるようなものです。いま読むならもう少しキャラクターなり物語性なり、プラスαが欲しいところです。
 

「黄色い花」(1957)★☆☆☆☆
 ――隣家の住人が殺された。現場にはトロロあおいの花が花びんに差してあった。

 トロロあおいという花の特性を活かした犯行時刻の特定には、兄雄太郎が植物学学生という設定が活かされていました。
 

「弾丸《たま》は飛び出した」(1958)★★☆☆☆
 ――楽しみにしていたテレビドラマが見たくて歯医者に入り込んで待合室で患者と一緒にドラマを見ていると、ドラマの銃声とともに往来で悲鳴があがり、老人が銃で撃たれて倒れていた。その後もポスターの銃から弾丸が飛び出したとしか思えないような事件が起こり……。

 やはり謎が魅力的だと面白さが違います。警察が物語的に都合の悪い事実には気づかなかったり、犯人に確認できない以上仕方がないとはいえ雄太郎が想像で話したり、雄太郎が謎の正義理論を唱えて証拠を隠滅したり、作品としてはひっちゃかめっちゃかですが。四つの事件が「偶然」「抜け穴」「看板のある場所での狙撃」「自殺」とそれぞれ違うパターンの銃撃になっているなど芸が細かく、著者が現代に生まれていればもっと粗の少ない作品が書けただろうにと思います。
 

「粘土の犬」(1957)★★★☆☆
 ――会社の金に手をつけていた井ノ口良介は、あの女を殺して金を奪おうと決めた。井ノ口は女の肉体を楽しんでいるだけなのに、女の方では再婚する気なのにもうんざりしていた。コブつきの未亡人で、そのコブがめくらの小坊主だった。井ノ口は後ろから女の首を絞めた。盲目の息子が母を探して泣き喚いていた。声さえ出さなければ誰なのかばれる心配はない。犯人不明のまま四年が経った。

 ノンシリーズの倒叙ものです。犯人しか知り得ない情報をうっかり洩らしてしまうというのは倒叙ものにはよくあるパターンですし、盲目の目撃者という設定がきちんと活かされているとも思えませんが、謎解きもの特有の手続きのつまらなさがないためすっきりとしたサスペンスでした。
 

「赤い痕」(1958)★☆☆☆☆
 ――ばあやの地元に遊びに来た悦子と雄太郎は起きたばかりの殺人事件の話を聞いた。おかねばあさんという東京者が赤い紐で首を絞められ殺されていたという。直前におかねさんと話をしていた行商人が疑われていたが、現場を調べた雄太郎は犯人は別にいると確信し、東京に戻って図書館で古い新聞を調べ始めた。

 物干し竿の切断面を泥で汚しておけばばれないというのは変装や一人二役と同じでツッコミを入れるのが野暮なのでしょうが、おかねさん殺しの動機は意味不明すぎてさすがに謎を作り出すためだけの不自然さにツッコミを入れてしまいます。
 

「みずほ荘殺人事件」(1960)★☆☆☆☆
 ――療養のため記者をやめた吉村の下宿で、所有者兼管理人が殺される事件が起こった。元同僚が情報を入手しようとやって来た。

 犯人当て。誰がどうだろうと良くだらだらとして、小説としてまったく魅力がありません。
 

「おたね」(1960)★★☆☆☆
 ――喜代子は二十二年ぶりに子守女中のおたねに出会った。おたねの夫が屋根の石に押し潰されて死んだのだった。「わたしが、殺しましたのです」と、おたねは言った。

 つもり積もったものが殺意に変わる瞬間と蜘蛛の糸を断ち切る裁きの瞬間を描いた殺人の回想と告白。被害者が死ぬきっかけこそ自業自得ですが、被害者がみずから罰を引き寄せたのではなく、すでに用意された罰から逃れられなかっただけなので、これをプロバビリティの犯罪というのは無理がありそうです。
 

「罪なきものまず石をなげうて」(1960)★★☆☆☆
 ――小宮山牧師親子が夕食を食べていると、ジャガーの源吉と名乗る男が上がり込んでそのまま夕食を食べ、居座ってしまった。隣家の夫人が誕生日の記念に仮装パーティを開いたが、その席で殺人事件が起こった。

 牧師親子のもとに転がり込んできたチンピラがうまく活かされていませんが、著者コメントによればこの三人のシリーズものにする予定だったそうです。日常の描写に潜んでいる動機【障害のある我が子が手込めにされ妊娠】がわかれば犯人の見当もつくスマートな作品でした。後半の短篇集『赤い痕』には探偵役が罪を見逃す話が一篇(「赤い痕」)と犯人が罰を蒙らない話が一篇(「おたね」)が収録されており、この「罪なき――」も探偵が罪を見逃す話です。告発をしないというのではなく明確に証拠隠滅を計っているので、裁きを神にゆだねたのではなく牧師自身の意図的な赦しのようです。仁木雄太郎も同じく善意の神きどりでしたが、メルカトルのような悪人ならともかく善人面でこういうことをされると興醒めです。

  


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