安野モヨコ選画シリーズ第2弾。なぜか初出の記載がなくなってしまいました。
「桃のある風景」岡本かの子(1937)★★★★☆
――肉体的とも精神的とも言い難いあこがれが、しっきりなしに自分に渇きを覚えさせた。「蝙蝠傘を出して下さい。河を渡って桃を見に行くから。」男性に餓えているわけではなかった。河岸の写生をしている画学生がいる。後に夫にするほどだから好いてはいた。けれども当時の欲求に照して、彼は一部分の対象でしかなかった。
性慾に似た感覚を桃林のなかで味覚として(そして嗅覚・触覚として)味わうという独特の感性が描かれています。当人にしてみれば生きづらいのかもしれませんが、文章で味わう分には心地よい別世界を味わえます。
「快走」岡本かの子(1939)★★★★☆
――道子はあわただしい縮こまった生活をして来たという思いを感じていた。堤防の方に向って歩き出した。誰も見る人がない……よし……思い切り手足を動かしてやろう。着物の裾を端折って堤防の上を駆けた。「銭湯に行って来ます」。それから毎日のランニングが日課になった。
表現しがたい屈托を身体を動かすことで発散させているこの作品は、「桃のある風景」と比べると、より穏当な感覚に落ち着いていて、父母すら絡め取ってしまうほどの普遍性がありました。
「葱」芥川龍之介(1920)★★★★☆
――神保町のカッフェにお君さんという女給仕がいる。とんと竹久夢二の画中の人物が抜け出したようだ。そのお君さんの趣味といったら、「不如帰」「藤村詩集」「カルメン」といった書物が並んでいる。北村四海君の彫刻の女が隣に控えたベエトオフェンへ秋波を送っている。但しこれはお君さんがそう思っているだけで、実は亜米利加の大統領だ。このお君さんが今、恋愛に苦しんでいる。
小説の登場人物に手紙を書いたり、わかってもいないのに芸術に傾倒したりなど、古今東西の文学少女や夢見る乙女をきれいに切り取っています。そんな夢見る乙女も現世利益を前にして現実に戻り、それを見た意識高い系青年がドン引きするというところまで、今に至っても「わかるわかる」とうなずける普遍的な一篇でした。
「むすめごころ」川端康成(1935)★★★☆☆
――静子さん、私はあなたのおじぎを真似していた。誰に向って――勿論武さんに。気づいた瞬間、私は血の気が引くほど驚いた。「私ではなく、静子さんが武さんにおじぎしているのだ」。ふと心の中で武さんの横にあなたを置いてみる。びっくりするほとよく似合う。神の啓示のようだ。その日からの私の願いは、あなたを武さんに近づけたいということだった。
好きな男に振り向いて欲しくて、憧れの美少女の仕種を真似ているうちに、憧れの対象自体に我が身を重ねて美少女の幸せを願う……と考えれば咲子の行動にもそれなりに納得はできます。理屈だけ見ればサイコものの犯人みたいな論理ですが、共感性の強い若い女性にとっては不思議でも何でもないのかもしれません。
「あばばばば」芥川龍之介(1923)★★★★☆
――保吉は赴任してから半年ばかりそのタバコ屋へ買い物に寄った。ある初夏の朝、煙草を買いに店に入った。眇の主人の代りに坐っているのは西洋髪に結った女である。「朝日を二つくれ。」「はい。」女の返事は羞かしそうである。のみならず出したのも朝日ではない。女は赤い顔をした。正真正銘に娘じみている。
同じ芥川の「葱」と同様、類型的とも言えますがそれだけに普遍的でもありました。そういった少女的なものから母親への変化を、「あばばばば」というひとことで表現できる感性に、類型ではない非凡さを感じます。
「地唄」有吉佐和子(1956)★★★★★
――菊沢寿久が怒り猛ったのは、相手が日系二世だったからではない。一人娘の邦枝が夫を持つこと自体を許せなかったのだ。三年近く、父には会わない。けれど夫が勤務先のアメリカ大使館の人事異動で本国へ帰ることになった。寿久は邦枝が出演する会には頑として出演しなかったが、渡米を聞きつけた関係者が父と娘を秘かに同じ日のステージに坐らせようという好意を見せてくれた。
表現の宝庫とでも言えばいいのか、自在な筆による胸に残る名場面の連続でした。「盲目の身が習性となって、それ故の頑なさだとしたら、なまじな知性などで親に近づかない娘の方に非があるということになるのではなかろうか」。何てアクロバティックな論理なのだろうと思いますが、そこまでこじれた関係であるということがこの一文からでもわかります。或いは、盲目の父親が琴の調子合わせをしている楽屋で、音が高いと感じた邦枝が思わず調子を直してしまうことで、互いの存在を確信する場面。凡庸な作家ならこれを以て親子の和解としそうなところですが、人の心はそんなに単純なものではないとばかりに、直後に爆発する父親の依怙地は、まさに爆弾でした。結末に描かれた車の座席を移らせる描写もほろりときます。
「耳瓔珞(みみようらく)」円地文子(1957)★★★★☆
――戦争中の過労がこたえたのか、滝子は三十をいくつも出ない若さで女の生理を根こそぎえぐりとっていた。「子供は出来ないけれど、接触はさしつかえないのですよ」と医者には言われたが、夫婦はそれから接触を断った。七、八年前に知り合った高梨という洋画家には装身具を意匠する道楽があった。高梨の饒舌と荒っぽい愛撫が、滝子の中のコケットリーを目醒ましたのは事実であったが、滝子には求めているものを生命がけで与える勇気はなかった。その時期に滝子は一人の男を殺した。
これはガーリーでした。悲劇に酔っているところが古式ゆかしい少女漫画の文法です。子宮摘出というのは確かに悲劇です。ですが肉体関係にまで至らなかった浮気相手によって忘れていた女を思い出させられてからは、女らしくしたたかで、特に次郎さんがらみに対する自意識過剰がいかにもそれらしい。
「佐々木のおはるさん」白洲正子(?)★★☆☆☆
――佐々木のおはるさんといっても知っている人はそうはいないかも知れない。かつて吉井勇や里見とんのモデルになったこともあり、少なくとも京都では知らぬ人のない名物女であった。人に好かれたのは、女としての色気より人間的な魅力の方であったらしい。
こういうのは正直よくわかりません。ただそういう人がいた、というだけで、肝心の魅力がほとんど描かれていません。悲しいことに魅力がわからなければただの人です。
「蛍」織田作之助(1944)★★★★☆
――登勢は一人娘である。耳の肉のうすい女は不運になり易いものだと伯父がいったその言葉から、あらかじめ諦めて置く習わしがついた。やがて十八の歳に嫁いだ寺田屋は、男親がすでに故人でお定は後妻で新郎の伊助には継母だった。お定は伊助がぼんやりなのを倖い、自身腹を痛めた椙に入聟とってつがせたいらしく、しっかり者の登勢は邪魔者だ……。夫の伊助は少しの汚れも気にしてそこらじゅうを拭きまわったりしている。
周りの人間は嫌な人ばかりで、主人公だけはお人好しで――というのは、今の目で見るとそう見えるだけで当時はこういう人間づきあいが当たり前だったのか、それともこうしたキャラクター配置が当時の小説の一つの型だったのかはわかりませんが、一昔前の人情ドラマみたいな空気に読んでいてなごんでいると、途中から歴史上の人物が乱入して来るという何とも不思議な展開でした。
「神います」川端康成(1926)★★★☆☆
――湯殿に走りこんで温泉に飛び込み、温かい濡手拭を顔にあてると、初めて冷たい星が頬から落ちた。「お寒くなりました」と声をかけられ見ると、宿へ来るので顔馴染の鳥屋だった。鳥屋は湯の中に膝をついて伸び上りながら、湯槽の縁に腰を掛けた妻の胸を洗っていた。小さな胸が、病気のためにいつまでも少女の体でいるらしい清らかさのしるしであった。妻の顔を初めてまともに見て、はっとした。五六年前の旅に傷つけた少女なのだ。
人間に他人の幸不幸をとやかくできるものではないという真理を、こうまで責任転嫁できるとは、どれだけ小心者なのでしょう。神というスケール感の大きさが、主人公の器の小ささを際立たせています。けれどこの作品自体は、人間の小ささよりもむしろスケールの大きさのみに焦点が当てられているようにも思えます。
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