『絶望図書館 立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』頭木弘樹編(ちくま文庫)
絶望図書館とはものすごいタイトルですが、編者によれば本書は「絶望的な物語」でも「絶望から立ち直るための物語」でもなく、「絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、長い「絶望の期間」をいかにして過ごすか? そういうときに、ぜひ館内に入ってきてみていただきたい」アンソロジーとの由。「漁師と魔神の物語」に見られる、絶望を感じる視点の取り方が興味深かったし、李清俊「虫の話」といった拾いものはあったものの、ほかの作品の場合は好きな作家のものは好きといった当たり前の感想で、アンソロジーとしてはお得感がありませんでした。
「第一閲覧室 人がこわい」
「おとうさんがいっぱい」三田村信行作/佐々木マキ絵(1965)★★★☆☆
――電話がなった。もしもし、パパだよ、おそくなりそうだからママにそういっておいてくれないか。受話器をおいてから気がついた。へやにもどると、三十分まえ帰ってきていたおとうさんがいた。全国いたるところで父親がふえるという現象が起こっていた。当局はすばやく事態の収拾をはかった。
SFでもホラーでもまったく同じ人間が――というのは使い古されたパターンですが、この作品の場合は増殖するのがおとうさんばかりです。当時は今より専業主婦も多かったでしょうし、父親というのは家族なのにふだん家にいない人だったりするのでしょう。母親はしたたかでしたが、語り手の少年はしたたかというより実感として意外と他人事だったのかもしれません。
「最悪の接触《ワースト・コンタクト》」筒井康隆(1978)★★★☆☆
――マグ・マグ人と本格的な交流を始める前に、地球とマグ・マグの代表がひとりずつ一週間だけ共同生活することになり、基地内ではましなおれが地球代表に選ばれてしまった。「よろしく」と挨拶した途端、ケララというそのマグ・マグ人は棍棒でおれの脳天を一撃した。「何をする」「よかった。死ななかったね」「死ぬところだったぞ」「殺して何になる。死なないように殴ったよ」
これを笑えるかイライラするかで、その人の心の余裕が計れるような気がします。わたしはイライラしてしまいました。余裕がありませんね(^^;。言葉がわからないとか文化が違うとかではなく、言葉は同じなのにああ言えばこう言う式で屁理屈を言って話をそらそうとするところが、現実にいそうでイライラしました。
「車中のバナナ」山田太一(1977)★★☆☆☆
――初夏に鈍行で帰って来たことがある。斜め前に座った気の好さそうな男がバナナをカバンから取り出し、お食べなさいよ、とさし出した。横の娘さんも前の老人も受け取ったが、私は断った。遠慮ではない。欲しくないのだ。ところがしまいには老人が私を非難しはじめる。
親切を押しつける人、拒む人、受け入れる人、受け入れを強制する人、というだけなら、あるあるで済んでいたのに、戦争と結びつけた途端に安っぽい老人のたわごとになってしまいました。
「第二閲覧室 運命が受け入れられない」
「瞳の奥の殺人」ウィリアム・アイリッシュ/品川亮訳(Eyes That Watch You,William Irish,1939)★★★☆☆
――ミラー夫人は全身が麻痺していた。裏のポーチで椅子に座っていると、息子の留守中にベルが鳴り、息子の妻ヴェラが扉を開けた音がした。男の声がする。息子の声ではない。「うまくいくと思う?」「知り合いのところからこっそり拝借した」……拝借したのはガスマスクで、夫とミラー夫人を事故に見せかけて殺そうとする計画だった。話を聞かれたところで夫人にはどうすることも出来ないことを、二人は知っているのだ……。
「じっと見ている目」「眼」の邦題で知られる作品の新訳。絶体絶命の危機と気のいい青年・刑事の登場というのはアイリッシュの様式美の一つですし、自分で歩くことも話すこともできない老婆がまばたきの回数で会話するという意外でも何でもない展開にもかかわらず、サスペンスを感じられるのだからさすがです。
「漁師と魔神の物語」(『千夜一夜物語』より)佐藤正彰訳 ★★★☆☆
――漁師が四度目に網を打ったところ、高そうな壺がかかっておりました。鉛の封を開けると、中から魔神が現れて言いました。「きさまに一ついいことを聞かせてやろう。好きな死に方と、いちばんいい殺されぐあいを選ぶがいい」
三つの願いではなく、漁師の機知の話です。壺に何百年も閉じ込められた魔神の方に絶望を感じているのは、編者でなくてはあり得ず、本書に収録されていなければこのような感じ方はできなかったでしょう。
「鞄」安部公房(1975)★★★★☆
――私は青年に、半年も前の求人広告に応募した理由を尋ねた。「この鞄のせいでしょうね。歩く分には楽に運べるのですが、急な坂とかにさしかかるともう駄目なんです。おかげで選ぶことの出来る道が制約されてしまうわけですね」「すると、鞄を持たずにいれば、うちの社でなくてもよかったわけか」「鞄を手放すなんてあり得ない仮説を立てても始まらないでしょう」
強制されているのではなく自発的にやっているのだからと語る青年と、選ぶ道がなければ迷うこともないと独語する語り手では、鞄に対する感じ方に違いがあるようです。無論、編者が共感したのは語り手の方です。理解不能な他者のことも経験してみればまた違った自分なりの理解が得られてもおかしくはありません。
「虫の話」李清俊《イ・チョンジュン》/斎藤真理子訳(벌레 이야기,이청준,1985)★★★★☆
――小学四年生になったばかりのある日、アラムは帰宅時間を過ぎても帰ってこなかった。誘拐かと思われたが、犯人からの連絡はないまま二か月半が過ぎた。そしてとうとう、塾のそばにある建物の床下から、むごい死体となって発見された。絶望と自虐に倒れた妻も、すぐに復讐の念によって立ち直った。復讐心のおかげで妻はまだ耐えていられた。
韓国がキリスト教社会だということを忘れていました。似たようなことはやはり誰もが考えるようで、『日本探偵小説全集 名作集1』に収録されている菊池寛「ある抗議書」を思い出しました。ただしキリスト者ではなないがゆえにストレートな怒りで作品を書けた菊池寛に対し、この作品の妻は信仰を持ってしまったがゆえに隘路に立たされてしまいます。最後に残されたわずかながらの逃げ道を断たれた絶望たるや、想像を絶します。死刑囚やキリスト教よりも、信仰こそ絶対と信じて他人の心を思いやれないキムさんのことを薄ら寒く感じました。
「第三閲覧室 家族に耐えられない」
「心中」川端康成(1926)★★★★☆
――彼女を嫌って逃げた夫から手紙が来た。(子供に毬をつかせるな。その音が聞こえてくるのだ。)彼女は娘からゴム鞠を取り上げた。また夫から手紙が来た。違う差出局からだ。(靴で学校に通わせるな。その音が聞こえて来るのだ。その音が俺の心臓を踏むのだ。)
離れても離れても聞こえて来るのは、家族を捨てた男の良心の呵責でしょうか。音を立ててはならないのでは当然の帰結を迎えます。母親が「お前達」と三度つぶやいたのは、それまで子どものことだけ書かれていた手紙のなかに「お前達」という家族であることを連想させる言葉があったからかもしれません。
「すてきな他人《ひと》」シャーリイ・ジャクスン/品川亮訳(The Beautiful Stranger,Shirley Jackson,1946)★★★★★
――最初の違和感は駅でやってきた。一週間前、二人はケンカをしていた。だから夫の出張中は、自分を取り戻すのにちょうどよかった。「出張はどうだった?」「すばらしかったよ」と答える温かい調子に腹が立つ。家に入って振り返ると、夫の姿が目に入った。誰なの? あれは夫ではない。驚きはなかった。この人は、わたしが泣くのを喜んでいたあの人じゃない。
かつて『こちらへいらっしゃい』に「美しき新来者」の邦題で収録されていた作品の新訳です。ジャクスンを読んでいてさすがだなと思うのは、久しぶりに帰って来た夫が車に触れたのを見て、「許せない。この一週間、この車を運転していたのはわたしだけなのに」と感じるような心の綾をすくい取れるところです。そしてまた、恐らくは妻が変になってしまったのを、世界の方が変わってしまったかのように書くことで(あるいはその逆だったり、どちらとも取れたりして)読み手に恐怖を感じさせるのもジャクスンの巧みなところです。
「何ごとも前ぶれなしには起こらない」キャサリン・マンスフィールド/品川亮訳(A Married Man's Story,Katherine Mansfield,1923)★★★☆☆
――奇妙なことに、息子を、妻や私自身とどうしても結びつけることができない。それに、妻のような“心を傷めた女性”に赤ん坊の世話をまかせられると考えるほうが間違っているのではないだろうか。夫婦はなぜいっしょにいるのだろう? あのとき起こったことを説明するためには、過去へと戻らなければならない。
読み始めたときには、妻が何らかの疾患を抱えていてそのせいで夫婦仲に危機が訪れているのだと考えました。読み進めていくうちに、何でもかんでも妻のせいにする夫に問題があるのだと思うようになりました。やがて唐突に過去の話に移り、そのまま終わってしまいました。投げっぱなしというよりは、夫の精神的不安定をそのまま一人称にしたのかどうか。
「第四閲覧室 よるべなくてせつない」
「ぼくは帰ってきた」フランツ・カフカ/頭木弘樹訳(Heimkehr,Franz Kafka,1936)★★★☆☆
――ぼくは帰ってきた。懐かしい? わが家に帰ったという気がする? 自分でもよくわからない。ひどく心もとない。たしかに父の家にはちがいない。しかし、どれもよそよそしく感じられる。
久しぶりに実家に帰って来た男の、懐かしさとよそよそしさ、戸惑いなどを記した断片。
「ハッスルピノコ」手塚治虫(1976)★★★★☆
――「もうすぐ春だ、おまえも満一歳になるな」「十九でちゅウ」通信教育で中学を卒業し、高校受験を受けたがるピノコだったが、ブラック・ジャックはピノコの精神的未熟さを慮って反対するのだった。
漫画『ブラック・ジャック』の一篇。畸形嚢腫として姉の身体で十八年間生きていたピノコは、ことあるごとに自分はもう大人だとアピールし、ときにそれを行動に移してトラブルを起こします。可愛いだけでも可哀相なでもないし、ピノコ本人は真剣なところがいいです。
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