『鏡は横にひび割れて』アガサ・クリスティー/橋本福夫訳(ハヤカワ・クリスティー文庫)
『The Mirror Crack'd from Side to Side』Agatha Christie,1962年。
タイトルはテニスン「シャロットの姫君」より。作中の女優が衝撃を受けたときの表情を形容したものです。
ミス・マープルもの後半の作品ということもあって、マープルが名探偵であることや村の噂話の伝播などは自明のこととして語られていました。とはいえ昔と最近の風潮の違いを愚痴ったり、おせっかいなコンパニオンを鬱陶しがったりと、典型的なおしゃべりおばあちゃんであることは変わりありません。
舞台はかつて『書斎の死体』事件のあったゴシントン・ホール。バントリー夫人は屋敷を手放し、現在では女優のマリーナ・グレッグが所有しています。その屋敷で開催されたパーティの席上、熱狂的なマリーナファンである村の住人ヘザー・バドコックがカクテルを飲んで急死してしまいます。生前の彼女に会っていたミス・マープルは、自覚のないまま人の恨みを買うタイプだと危惧していたのでした。
ヘザーが飲んだカクテルは女優のマリーナのものだったことから、本来は命を狙われていたのはマリーナだったのではないかという疑いが持たれます。その恐れを裏づけるように脅迫状が舞い込み、やがて第二の殺人が……。
始まってしばらくは村の日常という感じでゆったりと進みますが、女優の表情が変わるシーンで空気が一変します。マリーナは何を見たのか――これぞクリスティです。誰だって何かを見てぎょっとすることはあるでしょう。そんなありきたりの行為が、鬱陶しいファンに空返事している最中に急変するという場面によって効果を高められ、そのまま最後まで魅力的な謎であり続けました。
正直なところ、中盤はかなり退屈です。聞き込みとはいいつつそれこそ噂話をたどってゆくような内容なので、ゴシップ的興味はあっても、謎解きやサスペンスに乏しいのは否めません。タペンスみたいに見るからに好奇心旺盛!だと動きもあるのですが、ミス・マープルはちょっとお上品すぎるのです。
けれどそれもマリーナが表情を変えた真意が明らかになるまででした。まさに単純。たった一つの事実が明らかになることで、謎だったすべてが恐ろしい説得力を持って立ち現れて来ました。ヘザーの性格、マリーナの過去、何気ない会話の内容、そのどれもが不可欠に結びついていて、クリスティ一流の言い落としも絶妙です。犯人の誘導と曖昧な証言があるだけで、単純な事実が隠されてしまうものなのですね。被害者の性格が性格なだけに、動機には共感し犯人には同情してしまいます。
古い作品なのでところどころで変な訳語が登場します。
穏やかなセント・メアリ・ミードの村にも、都会化の波が押し寄せてきた。新興住宅が作られ、新しい住人がやってくる。まもなくアメリカの女優がいわくつきの家に引っ越してきた。彼女の家で盛大なパーティが開かれるが、その最中、招待客が変死を遂げた。呪われた事件に永遠不滅の老婦人探偵ミス・マープルが挑む(カバーあらすじ)
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