『漂砂のうたう』木内昇(集英社文庫)★★★★☆

漂砂のうたう木内昇集英社文庫

 2010年初刊。第144回直木賞受賞作。

 273ページ登場人物の台詞に、どんなにシンとしていても川や海の底では水の流れに乗って砂は動いている――とあるように、タイトルの漂砂とは底辺で暮らす人々の謂です。維新後の明治、時代に取り残された元士族や、行き場もなく貸座敷と名を変えた遊廓で働き続ける妓ら、時代の波に乗りきれなかった人々が描かれます。

 御一新のとき定九郎は藩を逃げ出し遊廓で妓夫をやってたつきを得て、今では根津遊廓で立番をして暮らしていた。妓夫太郎の龍造は厳しいだけでなく勝手に指示を出すため、疎ましく思っている遣手は何かと定九郎の味方をした。醜い嘉吉は仕事の覚えも早く、定九郎もうかうかしていられない。使いで行く賭場の山公は長州者だが政府の職務に就かず、賭場の仕切りをやっている。定九郎はごまかした金を三角石の下に隠し、常磐津の師範とはねんごろにやっていた。いつからか定九郎にまとわりつくようになったポン太は有名な噺家の弟子だというが、いっこうに目が出ない。狆を押し潰したような顔の花魁・芳里に客をつけてやりたいという遣手の頼みを聞いて、うっかり声をかけたのが渡世人だったことから、定九郎は厄介ごとに巻き込まれる。かつての同僚・吉次に脅され、根津遊廓でお職を張ってる小野菊の引き抜きを迫られる。

 遊廓の下っ端すらが『学問のすゝめ』を夢中になって読み、自由と保護が唱えられながらも誰も理解していない、そんな世界。下々の生活は変わるべくもなく、それどころか士族は身分と財産を失い、遊女は政府の後ろ盾を失うなど、むしろ混沌としてしまった人たちもいます。

 遊廓のためにプロの矜恃を持って働く龍造のような人間もいれば、成り上がりたいだけの嘉吉のような人間もいるし、すっかり意欲を失ってしまった定九郎のような人間もいます。遊廓生まれの龍造や、醜い見た目の嘉吉らと比べれば、まだしも生き方を選べたはずの定九郎が抜け殻のようになってしまうのは、卑近な例でいえば定年退職者の燃え尽き症候群みたいなものでしょうか。

 定九郎の父親が、立ち上がろうとする兄に、士道と忠義の違いを説く場面があります(p.232)。なるほど、これもまた一つの生き方なのでしょう。ただの消極的な停滞ではなく、信念に基づいた現状維持。信念を貫いたと捉えるか、要領が悪い負け犬と捉えるかはその人次第でしょう。

 小野菊の間夫の正体と小野菊引き抜き騒動をめぐる真相は、あからさまなヒントがまぶされているのでほとんどの読者には見当が付いてしまうだろうと思います。とはいえ重い作品のなかで数少ない前向きなエピソードであるのは間違いありません。圓朝作「鏡ヶ池操松影」が通底音として流れていました。

  


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