『ジュスタ』パウル・ゴマ/住谷春也訳(松籟社 東欧の想像力18)★★☆☆☆

『ジュスタ』パウル・ゴマ/住谷春也訳(松籟社 東欧の想像力18)

 『Justa』Paul Goma,1995年。

 ルーマニアの作家。

 本書は二つの点で難解です。一つはリズミカルとも言えるような独特の文体と細かい説明を廃した文章であり、もう一つがルーマニアの歴史についての知識が大前提になっているところです。

 二つ目については解説と訳者あとがきによってある程度はフォローされているのですが、文体については最後まで馴染むことができませんでした。

 何しろやけに軽い文体で、紹介文から受ける重い内容とは裏腹でした。「ぼく」という人称が生み出す村上春樹的軽さは、なるほど学生時代に冗談を言い合っている分にはむしろ相応しいのですが、後半のシリアスな場面になってもそのノリなので、著者あるいは訳者がどういう効果を意図しているのか反応に困ってしまいました。

 ぶつ切りの文体や中黒で区切られた言葉は原文を苦労して訳出したのがしのばれるのですが、「ぼ・く・た・ち・が?」なんて書かれても「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」みたいで笑ってしまいました。

 トリア(ジュスタ)の身に起こったことを寄宿舎の同僚ディアナから聞いた語り手は、「分かった、分かりましたよ、十分に……」と投げ遣りに話を遮ります。聞くのがつらくて遮るのではなく、どうしてこんなに面倒臭そうにしているのか理解に苦しみます。

 その次の章ではディアナの語りになり、ジュスタに加えられた拷問が当事者の言葉として語られているので、或いはどこまでも他人事でしか有り得ない語り手との差違を表現するために文体の軽さが選択されたのかもしれません。

 秘密警察(セクリターテ)のジェネラルに拳固でテーブルを叩いたか平手で叩いたかという言い訳をさせたり、ハチャメチャという言葉が用いられたりと、どうやらわざとユーモアを意図している様子は窺えます。わけのわからないパンティ(ノーパンティ)議論も、後に語られるジュスタへの拷問シーンを考えれば、対比させるために用意されたものなのでしょう。

 ただただ尊厳を奪うためだけにおこなわれた拷問は、穴を掘っては埋めさせるナチスの拷問を連想しました。

 多くの章が「ほら、ジュスタだ!」から始まる構成になっており、これが小説にリズムを生んでいると同時にジュスタへの興味を掻き立てる効果をあげていました。多くの章で「ほら、ジュスタだ!」とジュスタを見かけてから回想に入り、なかなか当のジュスタがどうなったのかが明らかにならなかっただけに、最後の章が「ほら、彼女だ」から始まったときには遂に!と昂奮しました。この場面は自分が日本語話者であることが残念でなりませんでした。「ジュスタ」から「彼女」に変わることで距離が縮まったのか開いたのかが直感的にわからなかったからです。

 作家・批評家養成機関「文学学校」に入学した語り手「ぼく」は、ひとりの女子学生と出会う。「正義の女」=ジュスタとあだ名された彼女を待ち受ける苦難とは――ルーマニアの反体制派の代表と目される作家パウル・ゴマが、学生時代を回想して綴る自伝的小説。(帯あらすじ)

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