『美女と竹林のアンソロジー』森見登美彦リクエスト!(光文社文庫)
森見登美彦編纂の本書のテーマは美女と竹林。そのまんまです。森見登美彦にしか編纂できないアンソロジーではあります。
「来たりて取れ」阿川せんり(2018)★★★☆☆
――北海道に竹林はない。「竹を利用した商品のプロジェクトに月ちゃんが選ばれた……ということは」「来月から、京都に転勤になります」「月ちゃんは私に……ついてきてほしい?」遠距離は正直言うと自信がない。「あーーー!」私は頭を掻き毟って二人で住むマンションを飛び出すのでした。そして私は東京の地に降り立っておりました。京都ではなく、東京です。なぜか。テレビを観たとき「上野動物園のシャンシャン」という文字が躍っておりました。「……時代は竹よりパンダじゃね?」パンダを制する者、竹林をも制す。
初めての作家です。すっとぼけたユーモアが編者とも共通しているようにも思えます。遠距離の危機にパニクった駄目OLが上野動物園前で出会った女子高校生と話をすることで立ち直るきっかけを得る――という話では全然なくて、一人で勝手に立ち直ってしまいました。
「竹やぶバーニング」伊坂幸太郎(2018)★★☆☆☆
――僕は酒屋で働く一方、探偵まがいの仕事も引き受けていた。「竹に異物混入? 何が混入したんですか」「かぐや姫です」「ええと」「百年に一度くらいのスパンで弊社では代々受け継がれてきたのですが、間違えて出荷してしまったわけです」。というわけで僕は、ホストをやっている友人・不比人を連れてアーケード通りの七夕飾りを眺めている。竹沢不比人は、遠く離れた美女を見つけるのが得意だった。
竹といえばかぐや姫――という王道でありながら、全力でコースをはずれる変化球です。かぐや姫が実在するというだけでも充分におかしな話なのですが、美女を見つけるという友人の特技だったり火鼠の皮衣だったりとさらにふざけのめした挙句に、結局はかぐや姫をSNSで見つけるというように、徹底してずらしていました。
「細長い竹林」北野勇作(2018)
「美女れ竹林」恩田陸(2018)★★★★☆
――先回りしてお断わりしておくが、このタイトルは誤植ではない。圓朝が集めていた幽霊画の展示を見に行き、いちばん怖いと思ったのは、竹林が描かれていたものであった。幽霊も何もない。竹林だけ。ふと記憶の底から蘇った出来事があった。Kちゃんの家の裏山は、丸ごと竹林だった。Kちゃんはあまり奥に行きたがらなかった。「どうして?」と尋ねると、「怖いおばさんがいるから」と答えた。
擬似エッセイ風に始まることからもわかるとおり、怪談実話の味わいがある作品でした。竹林は一つの個体だという特徴を活かして、竹林のなかの怪異ではなく竹林そのものを怪異と見なす発想【※竹林全体に大きな顔】が秀逸で、読み終えたあとでじわじわと恐怖が膨れ上がってきました。
「東京猫大学」飴村行(2018)★☆☆☆☆
――諸君。君たちは今日から伝統ある東京猫大学の一員である。入学おめでとう。君たちに聞きたい。猫学とは何ぞや? えー……いいか諸君。猫学とは、ありていに言えば〈猫を知り、猫になる〉方法を学ぶことだ。
猫大学の教員入学挨拶という、ふざけ倒した作品です。
「永日小品」森田登美彦(2017)★★★★☆
――僕が中学二年生の頃の話である。「新年会から抜けだしてやろう」と、ひとり裏山へ向かった。僕は池をまわって竹林に足を踏み入れた。「どこかに空き地があったはずだが……」そのとき背後でポキポキと枯れ枝を踏む音が聞こえた。それは謎めいた女の子だった。やがて僕らは祖父母の家に近づいたが、新年会の騒ぎがまったく聞こえてこない。家には誰もいなかった。「僕、死んじゃったのか?」振り向くとさっきよりも大きくなった女の子がいた。
当然といえば当然ですが、編者自身の手になる作品は「美女と竹林」というテーマ通りでした。神隠しのように少女に導かれて迷い込んだ竹林は、それこそ春の日のように暖かい不思議な魅力に満ちていました。
「竹迷宮」有栖川有栖(2018)★★☆☆☆
――左右を竹林に挟まれた平屋の邸宅に、私は冴木を訪れた。「用件は何だ?」「瑠奈がどうしてるか知らんか?」大学時代のサークル仲間で、私も冴木も彼女と付き合っていたことがある。「知っているわけがないだろう。まだ未練があったのか」酔いが回ってくると、冴木は私を竹林に連れ出した。「あれは?」「竹が光っているのさ」。やがて離れに到着した。「なあ松丸。誰に会いたい?」窓に明かりが灯り、女の人影が映った。「あの女は何者や? 瑠奈にそっくりやけど、そんなはずはない」
これもまた竹林のなかの異世界ですが、少年とは違い語り手はその世界を信じ切れない、のでしょう。缶ジュースが出てきたり、パンダがいたりと、まるで出来の悪いテーマパークです。
「竹取り」京極夏彦(2018)★★☆☆☆
――事業に失敗した父が自死し、私は公金に手を付けて解雇された。その段に至って漸く佐久間君のことを思い出したのだった。彼と私は世に云う竹馬の友だ。佐久間君は働いていない。仕送りは概ね女に消える。「お気の毒と云うよりないなあ。じゃあ君は細君とも離れてしまったのだな。なら、君もこっちに来るがいいさ」と佐久間君は意味の判らぬことを云った。「この場所なのだよ。見え易いのさ」「何がだ」「女さ」
同じ「見える」話でも、どんどん不幸になっているのが笑ってしまいました。
「竹林の奥」佐藤哲也(2018)★★★☆☆
――わたしは窓に近づいてブラインドの羽根に指を這わせた。このブラインドが世に言うところの人類の愚行をわたしの視界から隠していた。愚行が生み出した忌むべき結果は恐るべき鼓動をはらみ、ブラインドを通しても十分に感じられた。結果に対して原因がないなどとわたしが言ったことは一度もない。一度もないのだよ、万代くん、とよく万代くんに言ったものだ。
窓の外で起こっているらしいことは明らかにはなるものの、ブラインドやドグマや万代くんなどに対する執拗な繰り返しを見るに、始めから終わりまで妄想である可能性も否定できません。
「美女と竹林」矢部嵩(2018)★★★☆☆
――Mの仕事は押し入り強盗だった。好きな小説家のエッセイに美女と竹林は等価交換の関係にあるというフレーズがあり、Mは両親を殺すと、スーパーで買った筍と美しい幼児を交換することにした。子育てに失敗するたび幼児は死んだがその都度嬰児を持ち帰ってきた。美女と名づけた十一人目は大学生になり、「筍を食べたい」と言った。Mは道に迷い戻ってこなかった。「美女、二億円いるんだ」「いってないよそんなこと。帰れというのに帰らないんだ」「信用できないわ誘拐犯のいうことなんて」そういうわけで美女は二億円を用立てにいったMの代わりに竹林と暮らすことになった。
竹林が舞台なのではなく、美女という名前の美女と対等なキャラクターとして竹林は登場していました。竹は地下茎で繋がっている一個体であるからこそ、呪いで竹林にされるという妙なことも可能になるのでしょう。罪を許されたあとで本当の自由を得るという、新しい時代のかぐや姫ともいうべき内容でした。
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