『殺さずにはいられない 小泉喜美子傑作短篇集』小泉喜美子(中公文庫)★★★☆☆
同題の短篇集に単行本未収録だったショートショート集を収録して復刊したものです。『痛みかたみ妬み』が好評だったための復刊第二弾とのこと。編者による解説と、山崎まどかによる巻末エッセイ付。
「尾行報告書」(1977)★★★☆☆
――女探偵になるのはむずかしい。その興信所で彼女はいちばん末席で年齢も若く、まだ雑用係に近かった。有閑夫人が夫の浮気を疑って所長にまくし立てていた。「使ったことのない濃厚で動物的な香水の匂いがするんでございます。このあいだは手の甲に引っかき傷をつけておりましたの。女の爪でやられたにちがいありません」「所長さん、わたしにやらせて下さい」。金曜日、彼女はスナップ写真の中年男性を尾けはじめた。『五月×日金曜日、彼が会社から出てきました……』
大かたの予想通りでもなければどんでん返しするわけでもなく、【ネタバレ*1】というのも噓とは言えない状況でなおかつ黒だったというところに工夫が見られます。探偵を夢見る興信所の下っ端が奮闘するという少女探偵ものみたいな内容も、この工夫のために採用されていることがわかります。著者の持ち味のひとつを活かした作品と言えるでしょうか。
「冷たいのがお好き」(1975)★★★★☆
――ある年の夏、わたしは完全犯罪に立ち会いました……。女手で推理小説を書いて生計を立て、娘の理紗は二十歳の今は劇団で好きなようにやっております。この夏はK高原ホテルでいいアルバイトがあるとかで喜んで出かけて行きました。その何日後かに、親友であるカンツォーネ歌手の司まゆみから電話がありました。「K高原のあたしの山荘までドライヴしない?」。つきあっている青年作曲家がいるのに、わたしを乗せて行くとは? ミステリ好きの司まゆみは道中、殺人の方法について話を聞きたがりました。
このトリックは子どもの頃に聞いた覚えがあります。トリック集みたいな本に孫引きされていたのか、都市伝説みたいに「冷たいものは飲んじゃ駄目」と言われていたのだったか。トリックだけの作品ではなく、女性二人のそれぞれの動機やそれが明かされる過程にこそ面白さがありました。その殺害方法を選んだ動機を踏まえれば、これはオリジナリティ云々ではなく元ネタを引用する形であることが必要なのでしょう。
「血筋」(1981)★★☆☆☆
――わたしは、古い、特殊な血を引いている人の顔つきを見るのが好きだ。最近出会ったセバスティアン・ゴロカ氏は、人喰い人種の血筋を引いていた。人喰い人種。わたしはこの言葉からロマンの香りを嗅ぎとるのだ。「世界のリゾート地帯特集」の取材で出会い、撮影に協力してくれたお礼に、ホテルの夕食に招待した。
エリン「特別料理」みたいなのを狙ったのだとしたら、わざわざ数ページ手前で「御馳走」と書いてしまうのは悪手なのでは。それともそういう話ではないのかな。
「犯人のお気に入り」(1972)★★☆☆☆
――順が部屋を出て行こうとしたとたんに電話のベルが鳴り出した。「もしもし……譲はいないんだ」すっと出て行ってしまえばいいものを、なんだって受話器なんか取り上げたのだ。アパートを出たところで、順はまた大馬鹿をやった。すぐ前の電話ボックスから女が一人とび出して来たのだ。「あの人がいないって噓じゃないの。音楽聴きながら、起きるの待ってるわ」「待ってどうするんだよ」「問いつめてやるのよ。英文学史の先生とやっちゃったって噂」女の子が部屋の灯りをつけた。
【ネタバレ*2】だと思われたものが【ネタバレ*3】だったという仕掛けは面白い試みだとは思うのですが、さすがに不自然極まりなかったです。犯人を読者の前に登場させるタイミングに「犯人のお気に入り」という動機を持ってくるあたりが、バタくさいロマンチシズムを愛する著者らしい良さだと感じました。
「子供の情景」(1973)★★★☆☆
――アンリ・ジョルジュはいたずらばかりしていた。幼稚園もとっくに“追放”された。ランジェラン氏は帰宅後すぐに書斎にとじこもってしまう。『パパは忙しいのよ』と母親から言い聞かせられていたので悲しくはなかった。(ふん!)父親がちっともえらくないことを彼は知っていた。(でもアオイだけは!)その若い日本人の運転手はアンリ・ジョルジュを可愛がってくれる。ランジェラン夫人は良人との冷え切った間柄及び息子の聞きわけのなさに疲れ果てていたが、最近はあでやかさをとり戻してきた。
アンファン・テリブルもので、無知な子ども(五歳児)が死を理解していなかったり言葉を額面通りに受け取ったりしたせいで悲劇が起きるという定型通りの作品でもあります。そのせいで唯一の理解者(だと子ども自身は思っていた人物)を失ってしまうわけですが、理解者だという見解がそもそも子ども視点による子どもの理解でしかなかったのだから皮肉です。
「突然、氷のごとく」(1973)★★★☆☆
――N夫人はそっとあたりを見まわした。大丈夫。誰もいない。目的の部屋まで廊下を全速力で走った。着飾った服の下でかよわい心臓が大きく脈打った。ブザーにこたえてすぐにドアから一人の青年が顔を出した。孤児院出身という青年の必死の売り込みに打たれて、毛皮のコートを高額で買い上げたのがなれそめだった。あのコートがここにあって、彼がここにいてくれて、二人して恋を語り合えるなんて、なんとすばらしいことだろう! そのときブザーが鳴った。「開けろよ。すっかり見てたんだ。話をつけようじゃないか」
見え見えのようでいて二転三転と転がされてしまいました。有閑マダムのただの贅沢病だと思っていたことが、弱みを握っているがゆえに通報されないと考えていた小悪党の楽観を裏切る伏線だったとわかってしてやられました。
「殺人者と踊れば」(1976)★★★★☆
――その建物は昔と変わらず今日もちゃんと丘の上に建っていた。一瞬、とてもしあわせな気持がした。八年前、中学を卒業して都会へ出て行ったときとまったく変わらない姿だった。少女の頃、その古い西洋館が魔法のお城のように思われたのだ。「あそこはお化けが出る」「スパイが住んでいた」「密輸をやっていたんだ」。何と言われようとわたしはその建物にあこがれた。昔と変わらず今も村人たちには同じことを言われるだろう。「あそこへ行きたがるなんて馬鹿な子だよ」。わたしだってニュースは承知している。『……を殺害した犯人は○×方面へ逃走した模様です』。そういう人間は廃屋に逃げ込むだろう、そんな危険なところには近づくな、と。
仕掛け自体はその類の仕掛けとしても単純なものなので、今やそういった驚きを感じることはできませんが、ミステリの文脈から言えばまったく必要のないダンスのシーンこそ、お洒落なミステリを目指した著者ならではのものでしょう。すべて覚悟のうえで子どものころの憧れを目指すのは、それが最後だとわかっているからこそなのでしょう。
「髪――かみ――」(1976)★★★★☆
――彼は私の髪が好きだと言う。ベッドのなかで私の髪を好んで愛撫する。長く美しい黒髪は私の持っている唯一の財産だ。彼は新進気鋭のフランス文学者で、私はただの女子大生で研究助手。「――行こう」と、ふいに彼が言う。靴をはきながら何げなく夕刊の紙面に目をとめる。“若い女性、髪を切り落とされる クロロフォルムで昏倒されて”。彼の運転するシトロエンは古い日本家屋の前で停まる。あたりいちめん、髪の毛だらけ。歌舞伎で使うかつらに囲まれ、老人がすわっている。
著者の歌舞伎趣味がフェティシズムによる猟奇犯罪にうまく採り入れられています。床山が事情により引退したという記述が疑惑を呼ぶ怪しさになっていると同時にアリバイの伏線になってもいました。「殺さずにはいられない」にも引用されていたレヴィン『死の接吻』のアイデアを日本に換骨奪胎しているのですが、著者のバタ臭さ好きと登場人物が教師と生徒であることがうまく隠れ蓑になっていました。
「被告は無罪」(1977)★★★★☆
――「被告人を無罪とする」と裁判長は言った。その言葉を聞いたとたん傍聴席で彼女はあやうくその場に倒れるかと思った。彼女の恋人は殺されたのだ。あの男自身でさえそれを認めている。それなのに……。ビルとディックとチャーリィと彼女はジャズ・バンドを編成していた。酒の上の口論でディックを殺したビルは、アルコールのせいで心神耗弱状態だったと説明された。「もう法律には頼らないわ」(あとは自分で――)。判決のあと、彼女は一人きりで呑みはじめた。六か月後、チャーリィを誘ってアルコール中毒症の治療が終わったビルの退院祝いを催した。
酒好きの著者が書いたのかと思うと可笑しさを禁じ得ません。計画はしくじったものの目的は果たしたことに二重の皮肉が効いていました。欧米風のニックネームで呼び合っていることに雰囲気以上の意味はなさそうですが、泥臭いリアリティなんて吹っ飛んでいるのは確かです。
「殺さずにはいられない」(1975)★★★★☆
――首尾よく専務令嬢のハートを射とめることに成功した彼の前に、きっぱり手を切った筈のタイピストが現れた。「ごめんなさいね。どうしてももう一度あなたに会いたくなって」「しばらくだね。郷里へ帰る筈じゃなかったかい?」「それがね……あなたの赤ちゃんができたの」「何だって?」「認知してたまには顔を見せてくれるだけでいいの」(おちつけ、おちつくんだ)『アメリカの悲劇』や『青春の蹉跌』の主人公は女との清算に失敗した。ぼくは殺人を犯したりなんかしないぞ。
作中でもいくつかの作品が挙げられているように、成り上がりを目指した男が罪に手を染め破滅するパターンが型として用いられています。そして型は型としてきっちり型が破られていました。どうやらこの男は優しすぎたようです。何かのきっかけで転げ落ちるように誰もが犯罪者になり得るという意味ではこれもひとつの型と言えるでしょう。
「特別エッセイ――My Favorite Mysteries ミステリーひねくれベスト10」(1986)
――私の好みで勝手に選んでいい、さらに従来のベスト10の概念をやぶったひねくれたのにせよとの御注文である。
親本『殺さずにはいられない』のために書き下ろされたエッセイ。モーリス・ポンス『マドモアゼルB』だけ現在もマイナーな作品です。吸血鬼ものとのこと。シャーリイ・ジャクスン「ある訪問」は『こちらへいらっしゃい』収録作なので今では読むのが困難です。
「客にはやさしく」(1984)★★★☆☆
――昼休みの社長の訓示を聞いて、彼女は深くうなだれた。「お客様には親切に対応しなくてはいけません」。出社第一日目の今朝、ショー・ウィンドウのガラスのあたりを何やらごそごそとやっている三十代のお客を見つけて、思わずどなってしまったのだ。
単行本初収録のショートショート。無心の人物が期せずして結果を引き寄せてしまう民話のような話でした。
「投書」(1984)★★★☆☆
――三流とはいえ出版関係の会社に就職できた彼女にも、一つだけつらいことがあった。「広告部の主任がつらく当たるの」「『いいアイデアがあったらどうぞ教えて下さい』って言ってみるといい。悪い気はしないものさ」「ええ、言ってみたことがあるの。そしたら古くさいアイデアをいくつもくれたの」「しばらく辛抱してろよ。必ずいいことがあるよ」
彼氏による救いの手を都合よく解釈してしまうモンスターな主任の方が一枚上手でした。
「ボーナスを倍にする方法」(1984)★★☆☆☆
――いくら新入社員とはいえ、初めてのボーナスはつつましく予想していた金額の半分にも充たなかった。社長が見かねてなだめるように言った。「まあ、足りないぶんはうちの商品を少し持って行きなさい。お母さんも働いているし、寝たきりのおばあさんがいるんだろ? そうだ、今度発売された老人向きのうまいシチューがあるぞ」
大事なおばあさんを失ってももともと半分以下のボーナスが二倍にしかならなかったという話なのか、厄介者のおばあさんもいなくなってボーナスも通常通りの金額もらえたという話なのか、わかりづらいところがあります。
「御案内しましょう」(1984)★★☆☆☆
――彼女が新入社員ではなくなって数年以上。それでも毎年入社してくる男子社員には積極的にアプローチしていた。今年の春に入社してきたハンサムな男子はいい家の坊ちゃんという噂であった。夏休みにひとりで山荘にきていた彼女は、三日目にその新入社員とばったり出会った。「このへんのことならようく知ってるの。御案内するわ」「はあ――」
これは恥ずかしい。けれどいい格好しいな気持ちはわかります。地獄の悪魔に案内を誘われるのはあまり適切なオチとは思えません。
「ありのまま」(1984)★★★☆☆
――文章は“ありのまま”に正確に書きなさいと、彼女はいつも教わってきた。だから彼女は以下のようなものを書いたのである。「一九八×年○月△日 わたくしは起床しました。トイレへ行き、歯をみがき、顔を洗い、タオルで拭きました。……予定してあった通りにN駅の発車フォームへ上がって行きました。どこから見ても旅行に出かける女子大生に見えたにちがいありません……」
それぞれの媒体に応じた文体というものがあり、慣れていなければうまく書けないのはわかりますが、日記風ですらなく小説風になってしまうところが笑えます。
「プロの心得教えます」(1984)★★☆☆☆
――作家のB女史の住居へと向かう新人編集者M子の心は沈んでいた。原稿を依頼したのは一ヵ月ほど前である。次号の特集テーマが「しゃれた都会的なミステリー」になるはずだった。ところが編集長が交替してしまい、たちまち編集方針を変えてしまった。
わりとあるあるなんじゃないかと思うのですが、それだけによくある話で終わってしまっています。
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*1 猫のせい
*2 三人称
*3 犯人視点の一人称
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