『中野のお父さん』北村薫(文春文庫)
出版社に勤める女性編集者が、謎解きの得意な高校教師の父親に日常の謎を解いてもらう連作掌篇集です。分量から言っても内容から言ってもとにかく軽い。
円紫さんシリーズの〈私〉はまだ大学生だったので、初めて人間の暗部に触れることに衝撃を受けていたというのもあるのでしょう。物語が進むにつれて円紫さん離れしてゆく成長物語でもありました。
対する本書の主人公は社会人なので今さら世間の闇云々も成長もないのでしょう。何かあれば謎解きの便利屋さんくらいのフットワークの軽さで実家の父親に会いに行き、あっさり解答を得ます。
一応は各篇に父娘の愛情だったり師弟間の遊び心だったりに焦点が当てられてはいるのですが、深く掘り下げられることはなくあっさりと物語は終わります。
タイトルから見ても〈ブロンクスのママ〉シリーズを意識しているらしく、お父さんは安楽椅子探偵です。シリーズものの常として、四話目あたりまではそれなりの根拠をもとに推理していますが、だんだんと雑になっていました。
北村薫のユーモアが昔から苦手で、本書でも駄洒落がちょこちょこ顔を出すたびにげんなりしてしまいました。
「夢の風車」(2012)★★☆☆☆
――文宝推理新人賞の予選会は全会一致で『夢の風車』が最終候補に残った。主人公が三十前の女性だったこともあり、当初から強く推していた美希が担当することになった。国高貴幸。五十八歳男性。会社員。ところが本人に電話すると応募した覚えはないという。正確に言えば、投稿したのは一昨年だというのだ。
謎が非常に魅力的です。同年代の娘を持つ同年代の父親だから直感的に察することができたのでしょう【※ネタバレ*1】。著者がこれまでいろいろなところで書いていた「いかに書くか」の物語でもありました。
「幻の追伸」(2013)★★☆☆☆
――美希は先輩に誘われ『塀の中のジュリアス・シーザー』を観てきた。「三月十五日に気をつけろ」。作中の台詞が仕事に重なる。三月十四日は人事異動の発表日だ。美希は『小説文宝』の担当になった。五月号の特集は〈作家の手紙〉。古書店に取材に行った美希は店主から扱いに困っているという手紙を見せられた。才媛が大作家に当てた恋文とも取れるような内容だった。なぜか原稿用紙の十五字目で改行され、左端が切り取られていた。
お父さんがたまたま少し前に読んでいた雑誌記事がヒントになるのではさすがにアンフェアなので、美希と同僚ゆかりが映画を観に行ったエピソードが枕になっていました。原稿用紙に書かれた手紙からは、泡坂妻夫が『しあわせの書』を書いたときのエピソードを思い出します。悪い意味ではない切り取りが生み出した謎でした。【※ネタバレ*2】
「鏡の世界」(2013)★☆☆☆☆
――美希はゆかりとニューヨークに本店があるオイスター・バーに行き、ニューヨーク取材の話をした。撮影した写真に女優がNGを出したが、カメラマンが写真を反転させるとOKを出したというエピソードだ。物故した小説家・加賀山は画集も出版していた。その加賀山が残した未発表の画帳が発見された。美希とカメラマンはさっそく加賀山邸を訪れ、ご子息がめくる画帳にシャッターを切った。実家に帰ると父親が妙なことを言った。「その写真、裏焼きじゃないのかね」
これまでの三篇のなかではいちばん論理的なのですが、文章ではわからない手がかりなのですっきりしません【※ネタバレ*3】。鏡の向こう側とこちら側の違いを男女の関係にこじつけているのは強引でした。
「闇の吉原」(2013)★★★☆☆
――取材のなかで「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」という俳句の話になった。どこで区切るかによって意味が変わってくるという話だった。父にその話をすると、その句にはもともと二つの解釈ができるという意味の前書がついていたという。だとして当初の表の意味はどちらだったのか。
作中でも言及されている通り泡坂妻夫「椛山訪雪図」に引用された其角「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」の解釈をめぐる内容です。泡坂の文章が露伴の説に拠っていることや、【ネタバレ*4】など、話自体は面白いのですが、小説ではなく俳句解説エッセイでした。『六の宮の姫君』ほどオリジナリティがあるわけではないので、解説エッセイ風にならざるを得ないのでしょう。
「冬の走者」(2014)☆☆☆☆☆
――時代小説の中堅、塩谷先生がランニングに目覚め、編集部も市民マラソンに参加することになった。元バスケ部の美希に異論はない。だがゆかりは当日駅で足を捻ってキャンセル。編集長はスタート直前にトイレに行く始末だ。
これまでの四作は痩せても枯れても日常の謎でしたが、この作品は無理に謎を作って不自然な行動をさせていると感じてしまいました。そこまでする理由も作中では明らかにはされません。【※ネタバレ*5】
「謎の献本」(2014)★☆☆☆☆
――作家からいただいたサイン本をなくしてしまった。しょげているときに先輩から宿題を出された。「尾崎一雄が志賀直哉への献辞を書いた『留女』など、手に入ったらそれはそれで面白い」。この文章に何かおかしいところがあると思うか? 調べてみると『留女』は志賀直哉の第一短篇集だった。志賀直哉が献辞を書いたならわかる。だが宿題にするくらいだから単純な誤記ではないのだろう。
これも魅力的な謎でした。尾崎一雄『古本回顧談』に書かれたエピソードから逆算して作られたと思しき作品です。著者にサイン本を渡すという出来事に面白さを感じたのでしょうね。しかもその理由が歪んだ(?)師弟愛だというのだから題材としては魅力的です。ただしそれが「闇の吉原」同様、だたの種明かしエッセイになってしまっていました。美希がなくしたサイン本のオチもひどかったです。【※ネタバレ*6】
「茶の痕跡」(2015)★☆☆☆☆
――定期購読してくれる方からのお便りを読むのは美希の役目だ。大正生まれの方からのお便りもあった。編集長に伝えると、その亀山さんを取材することになった。昭和のひと桁ごろ郵便局の配達員になった若き亀山は、折りからの円本ブームで定期的に村まで届けることになった。A村のAさんとB村のBさんも購読者であり、意気投合したという。ところがある日B村に配達に行くと、お茶をこぼしたことで口論となり、AさんがBさんを突き飛ばして殺してしまったという。
このシリーズには珍しく、ものに執着する人間の暗部が描かれていますが、あっさりしているこのシリーズのこと、余韻も何もなく終わってしまいます。敢えて真の動機だと断言できるほど決定的とは言えない根拠をもとに、わざわざ嫌な内容を想像するお父さんは、どうしちゃったのでしょう。次の「数の魔術」を読むと、定年を控えてちょっと暗くなっちゃったのかな、とは思いますが。【※ネタバレ*7】
「数の魔術」(2015)★☆☆☆☆
――女性誌に移ったトラちゃんが書いた宝くじおばさんの記事は面白かった。もう三十年も同じ売り場で宝くじを三十枚ずつ買い続け、ひとつのデザインにつき一枚ずつ取ってあるのだという。その宝くじおばさんの家に強盗が入った。おばさんを刃物で脅して宝くじ三十枚を盗んでいったという。当たってもいないはずれくじだ。
なぜか最後の話が出版とは無関係の宝くじの話でした(このあともまだ続篇が書かれているので本当の最後じゃないとはいえ)。七億円がからめば何をやってもおかしくはないのかなあ、と思う反面、やってることのピントがずれすぎているようにも思います【※ネタバレ*8】。急にしんみりしてしまってますが、定年が近づいただけなら今の日本ではまだまだ若いでしょう。数字つながりでバスケ部の背番号を替えて敵チームを翻弄する作戦が描かれていますが、本当にただ数字がつながっているだけで事件とのつながりは薄いです。
若き体育会系文芸編集者の美希。ある日、新人賞の候補者に電話をかけたが、その人は応募していないという。何が起きたか見当もつかない美希が、高校教師の父親にこの謎を話すと……(「夢の風車」)。仕事に燃える娘と、抜群の知的推理力を誇る父が、出版界で起きる「日常の謎」に挑む新感覚名探偵シリーズ。(カバーあらすじ)
[amazon で見る]
*1 リアリティのない初稿を読んだ娘が改稿して応募していた。
*2 切り取られた部分にはエイプリルフールの日付が書かれていた。第三者をからかうために大作家が日付部分を切り取って本当の恋文っぽくした。手紙を冒頭から斜めに読むと「エイプリルフール」になる斜め読み。
*3 写真のなかの魚の絵が左向きではなく右向きだった。
*4 其角の句が「闇の夜は松原ばかり 月夜かな」を踏まえていることや、其角の句は元句と意味を反転したことが評価されていることや、その証拠として江戸小唄や落語に「闇の夜に吉原ばかり月夜かな」の形で採用されていること
*5 マラソンを抜け出しこっそり実家に戻ってサンタの役を演じた。
*6 『留女』の在庫がなくなった志賀直哉に請われて在庫を渡したが、自分のサインを書いておけば処分も贈呈もしづらくずっと保管しておいてもらえるだろうともくろんだ。※なくしたと思ったサイン本は実家に置いてあった。
*7 Aが亀山さんに「本を広げて見せた」ということはそれまでは閉じてあったはずであり、お茶で濡れたのなら乾かすために開くはずだから、Aは嘘をついている。Aが自宅の本を濡らしてしまい、Bの本とこっそり取り替えようとして見つかり口論になったのだ。
*8 仲間内三人で宝くじを買ったら七億円当たっていた。独り占めしたい犯人がくじの置いてあるおばさんの家からはずれくじを盗んで、くじにははずれたと言い張るつもりだった。
*9