『あやかしの裏通り』ポール・アルテ/平岡敦訳(行舟出版)★☆☆☆☆

『あやかしの裏通り』ポール・アルテ/平岡敦訳(行舟出版)

 『La Ruelle fantôme』Paul Halter,2005年。

 日本では初となるオーウェン・バーンズものの翻訳です。

 舞台は1902年のロンドン。ホームズ引退間近の時代ですね。

 いかがわしい路地に迷い込んで殺人を目撃し、どうにか抜け出すと、ついさっきまで自分のいたその路地が消えていた。後日その路地は現在では存在しないことがわかり、しかも同様の事件がこれまでに四件起こっていた――。なかなか魅力的な発端ですが、肝心の体験がホームズと依頼人ふうのやり取りのなかで語られるので、雰囲気がいまいち伝わって来ないのが惜しいところです。

 ――そう思っていたのですが、最後まで読めば、これは第三者が探偵に語るという形式でなければならないとわかりました。【※ネタバレ*1

 とはいえあらばかりが目立ちます。

 ウェデキンド警部が「三人目は路地を調べて、命を落としました」と話しているわりには、誰が死んだのか判然としませんが、実は単に行方不明だということがわかります。最終的にはその三人目は死体で見つかるわけですが、まだ生死不明の人間を既に死んだと言っている警部がてっきり犯人だと思いましたよ。。。原文が間違っているのか、条件法か何かを過去形で訳してしまっているのかは、わかりませんが。

 これまでに四人が云々と言っているわりにはほかの事件の具体性がさっぱりなのもイライラします。読み終えてみれば、これにも実は(作品上の)理由のあることなのですが【※ネタバレ*2】、だからといって進行上で切り捨ててしまっていいものでもありません。こういうところが雑です。

 警察を含めた一部の人間しか知らないはずの事実をなぜ犯人が知っていたのか――。これは事件が超常現象かどうかを占う大事なトピックなのですが、犯人が立場上こっそり情報を入手できたというどうとでも言える真相でした。これも雑でした。

 要の一つといっていい路地消失トリックは、これしかないと言っていいでしょう。ポイントは【※ネタバレ*3】などの類似トリックとは違って寝ても気を失ってもいない相手をどのように錯誤させるかなのですが、むしろ家ではなく路地だからこそ可能な錯誤【※ネタバレ*4】であるところに新味があるでしょうか。

 しかしながらこのトリックにはいくら何でも被害者が気づくだろうと思いますが、実のところ犯人はトリックを2回しか用いていません。しかもうち1回はバレているわけですから、リアリティのギリギリのところを突いているとも解釈できなくもありません。【※ネタバレ*5

 ハーバート卿を殺した理由もわかりません。操りの筋書きを強化する以上の理由が見当たりませんでした。

 その探偵の操りという趣向によって、黄金時代の古典からブラッシュアップされていると言えます。クイーンのテクニックを手に入れたディクスン・カー(の若書き)といったところでしょうか。本書の数少ない光る点でした。

 犯人は操りによってもう一つの事件の犯人を告発するのですが、そこまでのことをするのも「動機は殺された親の復讐しかありえません」だそうです。何でしょう、その根拠のない断定は。脱力しました。。。【※ネタバレ*6

 そこに至ってもう一つのトリックが明らかになるのですが、まるっきり別のトリックとはいえ例えばディクスン・カーの『曲がった蝶番』と比べてみると、アルテの稚拙さが歴然としています。あちらは15歳から25年ぶりにアメリカから帰国したという設定でした。当時のことを知る者ももういません。一方の本書の場合は、新婚旅行中に髪の色とファウンデーションと体型を隠す服装になり知り合いに会わないようにする――だそうです。いくら作り物の物語だとはいえ、アルテと比べてカーがどれだけ真実らしさに腐心しているかわかろうというものです。

 さて、本書は強盗犯が逃亡し、間違われた男が部屋に飛び込んで来るという場面から幕を開けます。緊迫した場面ではあるものの、何の意味があるのだろうと思っていましたが、最後にようやく明らかになりました。このユーモアも、本書のなかで数少ない光る点でした。【※ネタバレ*7

 これまでにアルテ作品は『第四の扉』『赤髯王の呪い』のほか雑誌掲載の短篇を読みましたが、「氏のベスト5に入るとも言われる傑作」がこんなとっちらかった出来では。訳文もラルフ・「エリオット」だったり「バシル」・ベイカーだったり「悲劇な自殺」だったりと、いろいろ雑です。

 ロンドンのどこかに、霧の中から不意に現れ、そしてまた忽然と消えてしまう「あやかしの裏通り」があるという。 そこでは時空が歪み、迷い込んだ者は過去や未来の幻影を目の当たりにし、時にそのまま裏通りに呑み込まれ、行方知らずとなる??単なる噂話ではない。その晩、オーウェン・バーンズのもとに駆け込んできた旧友の外交官ラルフ・ティアニーは、まさにたった今、自分は「あやかしの裏通り」から逃げ帰ってきたと主張したのだ!しかもラルフは、そこで「奇妙な殺人」を目撃したと言い……。謎が謎を呼ぶ怪事件に、名探偵オーウェンが挑む!(カバーあらすじ)

 [amazon で見る]
 あやかしの裏通り 


 

 

 

*1探偵にした話の内容が嘘だった

*2最初の二件はただの行方不明事件で、犯人はそれを利用した

*3「神の灯」

*4路地を挟んで同じような家があって二階は廊下でつながっている。1の家から入って2の家から出て来るよう誘導することで右と左を誤認させた

*51回目、2回目の事件は偶然。3回目は牧師で成功、4回目はバレて殺害、5回目は自作自演、6回目は犯人ではなくオーウェンの仕掛け

*6犯人が或る人物の弟ではなく息子であることが衝撃の事実のように描かれていますが、それまでに姉弟として特段の描写があったわけでもないので、だからどうしたの……としか感じませんでした

*7最後に事件の犯人を嵌めるために、警官から間違われるくらいに似ている強盗犯に協力を仰いで一芝居打ってもらった

『だから殺せなかった』一本木透(東京創元社)★★★★☆

『だから殺せなかった』一本木透(東京創元社

 各種ベストテンにランクインした「『屍人荘の殺人』と栄冠を争った第27回鮎川哲也賞優秀賞受賞作」。

 「おれは首都圏連続殺人事件の真犯人だ」大手新聞社の社会部記者に宛てて届いた一通の手紙。そこには、首都圏全域を震撼させる無差別連続殺人に関して、犯人しか知り得ないであろう犯行の様子が詳述されていた。送り主は「ワクチン」と名乗ったうえで、記者に対して紙上での公開討論を要求する。「おれの殺人を言葉で止めてみろ」。連続殺人犯と記者の対話は、始まるや否や苛烈な報道の波に呑み込まれていく。果たして、絶対の自信をもつ犯人の真の目的は――劇場型犯罪と報道の行方を圧倒的なディテールで描出した、第27回鮎川哲也賞優秀賞受賞作。(カバー袖あらすじ)

 著者と同名の太陽新聞記者・一本木透が事件に臨むモノローグと、とある青年・江原陽一郎の家族を巡るモノローグから構成されています。

 選評でも述べられているように、この新聞記者の一人称が圧倒的に読ませます。新聞の売り上げ不振による報道とワイドショー的事件の相克が冒頭から描かれるなか、きれいごとと批判された被害者/加害者家族の特集に対する回答は、一本木の過去でした。その顛末は物語としてはありふれてはいるものの、正義と個人の幸せというジレンマは重く、しかもその正義自体が揺らいだものだったというのでは、拠って立つ地盤自体が揺らいでしまいかねません。正直なところ、二十年で立ち直れる語り手は、強いか鈍いかのどちらかでしょう。

 もう一人の語り手である、一本木の記事および太陽新聞の読者である江原陽一郎も重い過去を背負っていました。父親への思いや家族との微笑ましいエピソードが綴られ、特に「タブ鹿」といった細部には身内だけが持つ絆のリアリティが感じられます。だからこそ、真実が明らかになったときの衝撃は計り知れません。

 さて、一本木の特集記事を読んだ連続殺人の犯人から挑戦状が届きます。犯行を「言葉で止めてみろ」というのがポイントですね。「つかまえてみろ」でも「止めてみろ」でもない。一本木たちがおこなうのも、だから犯人探しではなく犯人への反論ということになるのですが、一本木個人が指名されたとはいえそこは新聞という半ば公的な器である以上、はっきり言えばきれいごとしか述べられていません。謎解きという点に関していえば、この紙上討論がむしろ中だるみと言っていいでしょう。

 一本木の反論だけではなく街の声や社説を載せようとするピントのずれ方が現在の新聞らしいとも言えますし、殺人事件を売り上げに結びつけることには批判的でありながら、現実であれば四人目の被害者が出た時点で一本木と太陽新聞に対するバッシングが起こるであろうことには無頓着であるところなど、ひっくるめてメディア批判と言って言えなくもありません。もっとも、後者に関しては、そこまで書くとミステリ小説としてバランスが悪くなるのは確かです。

 事件は200ページを超えたところで新たな局面を迎えます。これがひどい。「犯人を知っているけれど今は言えない」――これまでのリアリズムをぶち壊すような、作り物のミステリが顔を出します。これだけでもひどいのに、この明らかに作り物っぽい部分が実際に作られた部分だったというのは、本書の一番の欠点でしょう。

 結局この作り物の部分が尾を引いて、犯人の動機もなにもそらぞらしいものになってしまいました。タイトルになっている「だから殺せなかった」理由こそ胸を打ちますが。

 しかも本書は決していい話では終わらせません。いい話風にまとめてはいますが、犯人視点で見れば一本木は屑でしょう。一本木自身もそれを自覚していながら、すでに過去の思い出になってしまっているようです。何食わぬ顔でしれっとこういうことを書くあたり、著者はかなり意地の悪い人なんだろうなと思います。

 [amazon で見る]
 だから殺せなかった 

『怪異十三』三津田信三編(原書房)★★★★☆

『怪異十三』三津田信三編(原書房

 東西の怪奇小説十三篇に編者自身の単行本未収録作を加えたもの。四つの採録基準(一、編者自身がぞっとしたもの。二、有名作以外。三、入手困難作。四、国内7&海外6&編者書き下ろし)を満たせずに、著名作も含まれ編者作品は既発表作となっています。
 

「死神」南部修太郎(1920)★★★☆☆
 ――辻車引だった私は、脚気が急に起こってとうとう歩くのさえ不自由になりました。無論溜置きがあろう筈もなく、頼りにする身寄りもありません。親方への借金もとうとう断わられてしまいました。坂を上っている時でした。丘の蔭からひょいと飛び出て来た人影があります。若い女ですね。何時の間にか、桜の木の枝にたっていました……。

 どん底の負け犬がさらにドツボにはまる――というよりも、精神的にもはや生きる気力など消え果ててしまっているのでしょう、何をしても何を見ても死を感じる運命だったようです。作品そのものがそういった暗い感情に支配されているので、精神的に弱っているときには読みたくありませんね。
 

「妖異編 二 寺町の竹藪」岡本綺堂(1924)★★★★☆
 ――その頃まだ十一のおなほちやんが近所の娘たちと往来で遊んでゐると、一人があらと叫んだ。「お兼ちやん。どこへ行つてゐたの。」「あたし、もうおみんなと遊ばないのよ。」お兼は悲しさうな顔をして消えるやうに立去つてしまつた。夜になつてお父さんが湯屋から帰つて来た。「お兼ちやんが見えなくなつたさうだ。」

 岡本綺堂の怪談は、皮肉なことにその文章や作品の端正さから、怖いというより「安心できる」「心地よい」と感じてしまいます。この作品の場合は「哀れ」でもあるでしょうか。「あたし、もうみんなと遊ばないのよ」の時点で何が起こっているのか読者には明白なのですが、はじめはあまりにも理不尽な悲劇として描かれ最後には哀れな悲劇として描かれる、被害者と加害者の双方に注がれた視線が印象的です。
 

「竈の中の顔」田中貢太郎(1934)★★★★☆
 ――三左衛門は温泉宿《ゆやど》を訪れるようになった僧と碁を打つのが楽しみになった。「あんなお坊さんが、このあたりにおったか、なあ」主翁《ていしゅ》が言った。「山の中に怪しいお坊さんがいて、そのことを云う者があると生命を奪られると、そんな噂をする者がありますよ」「怪しい坊主でも碁が上手なら良い」あるとき三左衛門は散策中に僧の庵を見つけて訪れた。

 定番中の定番で、ある種の江戸怪談のような因果も断たれた理不尽な恐怖が襲います。タイトルにもなっている竈の中の顔が何の予兆もなく現れる場面では、突然すぎて怖いというよりむしろユーモラスにさえ感じたので、まったくの不意打ちでした。
 

「逗子物語」橘外男(1937)★★★☆☆
 ――妻が亡ったばかりの頃、厭世的になっていた私は、逗子の山寺の石段を上って墓地を分け入り断崖の上に腰を降ろして海や墓を眺めていた。ふと声がするので十二、三の美しい少年と、二十五、六の女中と、木綿縞を着た老爺が、由あり気に話をしていた。肺病で死んだピアニスト日野涼子の息子だという話だったが、よくよく聞くとその息子たちも去年の今頃にもう亡っているという。

 これも定番ですが、怪談として読むとやはり長すぎると感じてしまいます。とはいえ語り手が恐怖を重ねた末だからこそジェントル・ゴースト・ストーリーとしての余韻が深まるのも事実です。
 

「佐門谷」丘美丈二郎(1951)★★★★☆
 ――私が駅に降りたのは真夜中の十二時だった。迎えもない。駅長によれば、佐門谷を夜に越える者はいないという。佐門なる馬喰と器量よしの娘が殺されてから佐門谷と呼ばれるようになったその谷の道では、もう二十人も人死があった。四五日前にもあったばかりで、やれ心中だやれ死んだのは別の男だのと噂になっているという。それでもようやく来た迎えの馬車に乗っているうち、ついうつらうつら始めていた。

 谷に落ちた死者の幽霊が現場に出て来る……そんなありきたりの怪談なのにぞっとするのは、文字通り生身の怖さがあるからでしょうか。ごくごく普通の人物が一変して恐ろしい顔を見せるのは、信頼や安心を裏切られるからだと思います。編者も書いているように、どういう説明がつくかわからないまま読むのが理想です。著者がマイナーなおかげでどういう作家なのかわからないまま読めたのはラッキーでした。
 

「蟇」宇江敏勝(1972)★★★★☆
 ――昔、とある山深いところで、二人の男が炭を焼いて暮らしていた。初夏のある夕暮れのことである。年かさのほうの男が小屋で食事をはじめていた。ふと窓がばたんと開く音がして、見知らぬ男の顔があった。「いま、この先へ、ええ声で鳴く蟇を吊っておいたよ」とにやりと嘲るような笑いを浮かべて、消えうせた。

 ぞっとするという点では本書中でもピカイチでした。男の正体は死神や妖怪のようなものだと考えるのが妥当でしょうが、あるいは猟奇殺人犯であるのかもしれません。しかしながらそんなことよりも、ただただ意味もなく死だけが目の前に放り投げられるおぞましさがいつまでも尾を引きます。
 

「茂助に関わる談合」菊地秀行(2001)★★★★☆
 ――甚左衛門の家へ甥の喜三郎がやって来た。「こんな時刻にどうした」返事は奇妙なものであった。半月ほど前に世話した若党の茂助のことを尋ね、「あれは、人間《ひと》ではござらん」と告げた。詳しく話を聞いた甚左衛門は表情を変えた。そのとき今度は喜三郎の妻おねいの訪問が告げられた。奥座敷に通したが、おねいは口をつぐんだままだ。

 本書のなかでは新しめの作品ですが、そうはいっても十年以上前の作品なので親本の『幽剣抄』も紙版は品切れなのですね。見知っているはずの人間がどこかおかしいというのには得も言われぬ不気味さがあります。茂助の話をしに来たはずなのに、まずは話しに来た当人たちに対して恐怖を感じさせるという構成が巧みです。だからこそそれをひっくり返すように茂助のことに立ち戻る展開の恐怖が生きています。怪談の定石に従えば喜三郎たちはすでに死んでいるのでしょう。短い作品だからこそ、その絶体絶命の数行には凄みがありました。
 

「ねじけジャネット」ロバート・ルイス・スティーヴンスン/河田智雄(Thrown Janet,Robert Louis Balfour Stevenson,1881)★★★★☆
 ――バルウィアリーの牧師をしているサウリス師は、まだ若かった五十年前、牧師館を切り回してくれる婦人が必要だった。だがジャネットという年輩の女は、兵士と関係して子供をもうけ、もう三十年も聖餐にあずからず、一人でぶつぶつ言っているのを目撃されていた。ジャネットがやとわれるという噂が広まると、腹を立てた女たちはジャネットを非難し取っ組み合いになった。次の日からジャネットの首はねじけていた。

 田舎者による変わり者いじめみたいだった話が、そのいじめを契機に突如として悪魔憑きの話になります。後年の『エクソシスト』を思わせる首のねじれたジャネットや、(当時に於ける黒人の姿とはいえ)人間の姿を取った悪魔など、古い作品とは思えないほど洗練された恐ろしさがありました。
 

「笛吹かば現れん」モンタギュウ・ロウズ・ジェイムズ/紀田順一郎(Oh Whistle, and I'll come to you My Lad,Montague Rhodes James1903)★★★☆☆
 ――パーキンズ教授が友人とゴルフ旅行に出かけた折、聖堂騎士団の遺跡で金属製の笛を見つけた。ラテン語で何か刻まれている。試しに吹いてみると、いきなり風が吹き出した。その夜、パーキンズは幻覚のようなものを見た。砂浜を誰かが何かから逃げている。

 これも定番です。以前に伊藤欣二訳(→リンク)で読んだことがありますが、紀田訳の「亜麻布のような顔」よりも旧訳の「シーツのような顔」の方が断然怖い。原文では「linen」ですね。
 

「八番目の明かり」ロイ・ヴィカーズ/中野康司訳(The Eighth Lamp,Roy Vickers,1916)★★★☆☆
 ――八番目の明かりが消えた。遠くから電車が近づいてくるかすかな響きが聞こえた。終電車を見送ったばかりだ。信号係に予告もなしに電車が来るなんてありえない。明かりのついていない電車が下り方向のトンネルへと呑みこまれていった。ラウールは悪夢でも見ているような気持ちで入口に鍵をかけ、ジニーの待っているアパートへ向かった。

 通らないはずの電車――終電のあとにもう一台電車が通るという、怖いというより魅力的な謎のような出来事ですが、一つずつ明かりを消して最後の八番目を消すと暗くなるという暗闇の恐怖が描かれています。主人公はなぜそれほど恐れるのか――同棲相手のエピソードと併せてすべてが腑に落ちる真相は、ミステリ作家ならではでしょうか。
 

アメリカからきた紳士」マイクル・アレン/宇野利泰訳(The Gentleman from America,Michael Arlen,1924)★★★★☆
 ――アメリカ人らしく精悍なピュース氏は、キリアー卿たちの賭けに乗った。幽霊が出るという邸で一晩過ごせばよい。ピュース氏は拳銃をテーブルにおいてから、眠ってしまわぬように『少年少女のための怪談集』を読み始めた。開いたページは「お化けの足音」という物語だった――夜中に物音がしたのでジュリアは階下に降りていった。階下でにぶい音がしたのは、ジュリアがスリッパを落としたからだとジェラルディンは考えることにした……。

 ジュリアとジェラルディン姉妹を描いた作中作の子供向け怪談が味わい深く、平凡な怪談の皮をかぶったホラーという趣向が上手くいっています。この作中作のおかげで、幽霊屋敷で一晩過ごすというありきたりな外枠に彩りが添えられていました。外枠のその後にも一ひねり二ひねりされているのもいいですね。それにしても恐ろしいのはキリアーたちのクズっぷりではないでしょうか。過去の行為はまだしもパニックを起こしてしまったからだとしても、現在の場面で笑顔で接するのは常軌を逸しています。
 

「旅行時計」ウィリアム・フライヤー・ハーヴィー/西崎憲(The Clock,William Fryer Harvey,1928)★★★★☆
 ――ミセス・ケイレブは二週間ほど叔母のところに泊まっていました。私が知り合いの家に出かけるのを見計らったように、「家に寄ってきてくださらない? 旅行用の携帯時計を忘れてきちゃったんですよ。鍵はここにありますから」と言いました。私は泥棒になったような気になって屋敷を探し、旅行時計を見つけました。時計は時を刻んでいました。二週間不在だったのですから、捩子が切れているはずです。

 再読。『怪奇小説の世紀1』(→リンク)のほか、その再編集版『怪奇小説日和』(→リンク)にも収録されています。怪異そのものを描かずに恐怖を演出するというのは、下手くそな作家が書くと読めたものではありませんが、「炎天」「五本指のけだもの」のハーヴィーにかかると紛れもない恐怖に変わります。小さな違和感や物音の積み重ねが恐怖を増幅させていました。解説によれば「五本指のけだもの」は映画化されているそうです。
 

「魅入られて」イーディス・ウォートン/薗田美和子訳(Bewitched,Edith Wharton,1937)★★★★☆
 ――農場主のボズワースとヒブン牧師補と農場のブランドの三人が、冬の最中にラトリッジ家に呼ばれた。ラトリッジの妻によると、ブランドの死んだ娘オーラと夫が古い小屋で二人で会っているのを目撃したという。夫のラトリッジもそれを認めた。そこで三人は、翌日には現れるはずの娘をこの目で確かめに行くことになった。

 死者との逢瀬というと怪談としてはありきたりですが、編者が解説で映像版の恐怖として挙げていた足跡の場面は文章で読んでもやはり怖い。実体のない幽霊譚だと思っていたところに生身の肉体が現れたような怖気を感じました。肺炎というキーワードなどからマテオ・ファルコネのような出来事を連想させながらも、すべては曖昧なまま幕を閉じます。
 

「霧屍疸村の悪魔」三津田信三(2013)★☆☆☆☆
 ――隠れ切支丹の集落跡を訪れたのはもう五十年も前のことになります。民俗学の実地調査に赴く前に、教会の持ち主は門出という要職名の男とは手紙のやりとりをしていました。地図を頼りに村に向かい、老人に道を尋ねると、「あの村にはマークがおる。絶対に行ってはならん」と言って立ち去ってしまいました。無人のはずの教会にマークという名の神父がいるとも思えません。

 『ミステリマガジン』2013年8月号掲載。「ねじけジャネット」と「魅入られて」の解説にある悪魔と足跡に対する著者の思いを盛り込んだような内容ですが、理屈めいてしまうとつまらないものにしかなりません。

 [amazon で見る]
 怪異十三 

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編/中原尚哉他訳(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)★★★★☆

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編/中原尚哉他訳(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 ケン・リュウが英訳して編んだ作品集の重訳なので、訳文は読みやすい。編者が序文で、政治的な読み方のような欧米視点の上から目線の読み方はやめてくれ(大意)、と書いています。実際「沈黙都市」で描かれるような検閲は、現実の中国を連想させると同時にSFの定番設定に過ぎないことも事実なので、中国作品だから――というフィルターはフェアではないとは思います。
 

「鼠年」陳楸帆《チェン・チウファン(スタンリー・チェン)》/中原尚哉訳(The Year of the Rat,Chen Qiufan(Stanley Chan),2009)★★★★☆
 ――豌豆《ワンドウ》にはじめた会ったのは大学の動員集会だった。就職浪人した僕たちは、除隊後の就職先斡旋に釣られて、逃げ出した遺伝子改造ラットの駆除隊に入った。駆除は“戦闘”と呼ばれた。鼠は二本足で走るよう改造されていたので駆除は簡単なはずだった。ところが妊娠した雄鼠が見つかり、事態は一変した。そして豌豆がダムから転落死しするという事件が起こった。

 『S-Fマガジン』2014年5月号に訳載。鼠が一生懸命二本足で走っているところを想像するとマヌケなものの、雄の妊娠や巣でおこなわれていたと思しき文化行為などで怪奇ムードは高まり、最先端の科学と底辺国民のギャップに社会の欺瞞と滑稽を感じ、戦場の狂気におののきます。何よりも現場はあれだけひどい目に遭いながらも掌の上で踊らされていただけの無力感が残りました。
 

麗江《リージャン》の魚」陳楸帆/中原尚哉訳(The Fish of Lijiang,Chen Qiufan,2006)★★★☆☆
 ――健康診断の結果、二週間のリハビリに行かされた。そこで僕は特殊医療の看護師だという女性に出会った。患者は時間だという彼女の勤務先は“時間治療棟”。財界のトップクラスの老人が“時間感覚拡大療法”を受けているという。女性が集団生活をすると生理周期が同期するように、看護師にも同じことが起きる。だから年に一回麗江にリハビリに来ているという。

 『S-Fマガジン』2017年6月号に訳載。英訳(2011)も初出(2006)も三篇のなかで一番早いのに邦訳順も本書掲載順も「鼠年」に譲っていることからもわかる通り、動きのある「鼠年」と比べると地味――というより、本来はこうした自意識に囚われたうじうじした語りの作風なのでしょう。主観的時間を操作するという題材や、時間を伸ばされた者と縮められた者同士の治療という発想は面白いのですが、うじうじした語り手が気持ち悪かったです。
 

「沙嘴《シャーズイ》の花」陳楸帆/中原尚哉訳(The Flower of Shazui,Chen Qiufan,2012)★★☆☆☆
 ――僕は深?市を二つに隔てるフェンスの外から来た。政府がフェンスの撤去を決定すると、経済状態の変化を見越して僕は働いていた工場の試作品を売って逃げて来たのだ。沈《シェン》姐さんはいい人だ。僕を入居させてくれ、ボディフィルムと改造ARソフトの屋台を貸してくれた。娼婦の雪蓮《シュエリエン》は沈姐さんの漢方薬局によく買い物にきた。雪蓮は腰にポン引きである夫の名前をボディフィルムにしていた。まるで古いギャング映画だ。

 舞台の背景を別にするとSFっぽいところはパペットスーツくらいでしたが、不幸に酔ったような語り手がやはり気持ち悪い反面、この町のごみごみした雰囲気はかなり魅力的です。ビルを「三日で一階ずつ高くしていった」というのが大げさでも何でもなく中国ならさもありなんと思わされてしまいました。
 

百鬼夜行街」夏笳《シアジア》/中原尚哉訳(A Hundred Ghosts Parade Tonight,Xia Jia,2010)★★★★☆
 ――百鬼夜行街は藍色の帯のように細く長い通りです。小倩《シャオチェン》によると、ぼくは赤ん坊のときに寺の石段で泣いているところを燕赤霞《イエン・チーシア》に拾われたそうです。幽霊になる前の小倩は豊かに暮らしていたそうです。百鬼夜行街で生者はぼくだけです。ぼくはここの住人ではないと小倩は言います。大人になったら出ていかなくてはいけないと。

 恐らくは観光のため、幽霊(という名のロボット)に魂を入れられた人々が暮らす街で生活する少年・寧《ニン》の物語です。首を切って死んだら人間だ、という烏の言葉とはうらはらに、人間ではないと知りながらも死を受け入れてゆく語り手が哀れです。登場するのは機械とはいえ観光のために造られた街が舞台なので、妖怪が出て来る幻想譚の趣がありました。『S-Fマガジン』2007年6月号に「カルメン」の邦訳があります。
 

「童童《トントン》の夏」夏笳/中原尚哉訳(Tongtong's Summer,Xia Jia,2014)★★★☆☆
 ――おばあちゃんが亡くなってから一人暮らしをしていたおじいちゃんは、ずっと革命の仕事をしてきたのでじっとしていられない性格で、ついに診療所の帰りに脚を折ってしまいました。退院すると車椅子に乗ったおじいちゃんが引っ越してきました。童童はおじいちゃんが苦手でした。数日後、パパが阿福《アーフー》という介護ロボットをつれてきました。

 途中まではただの孫と祖父のつまらない日常でしかないのですが、パワードスーツの遠隔操作を利用した要介護者による介護という状況が生まれると俄然盛り上がって来ます。そこで革命が出て来るところが中国作品の強みです。
 

「龍馬夜行」夏笳/中原尚哉訳(Night Journey of the Dragon-Hourse,Xia Jia,2015)★★★★☆
 ――龍馬は月夜に目覚めた。花の香をかごうと息を吸ってみた。血肉の体でない龍馬に嗅覚はない。空気は機械コンポーネントを吹き抜けるだけ。世界は荒廃してひさしい。まだ人の住まうところはあるだろうか。龍馬はどこまでも歩きつづけた。鳴き声が聞こえた。「だれだ?」「蝙蝠よ。しばらく乗せてくれない?」龍馬と蝙蝠は歩きながらさまざまな話をした。

 「百鬼夜行街」と同じような世界観の、あの世界が滅びたあとの出来事のような作品でした。「百鬼夜行街」の登場人物によれば、死が人間であることの証拠とされていましたが、本作ではとうとう魂のようなものまで描かれています。ただのファンタジーなのか、意識というものに対する著者なりの考えがあるのかは、この三作からだけではよくわかりません。
 

「沈黙都市」馬伯庸《マー・ボーヨン》/中原尚哉訳(The City of Silence,Ma Boyong,2005)★★★★☆
 ――時は二〇四六年。ところは国の首都。国名はない。ほかに国はないからだ。BBSフォーラムを使いたい者は多い。ウェブで多少なりとも会話に近いことができるのはそこだけだ。“健全語リスト”にない言葉は使用を禁じられている。アーバーダンはBBSの利用申請書類に隠されていたメッセージから、関係当局の目を盗んでおこなわれている会話クラブの存在を知った。

 作中で『一九八四年』の名が挙げられているように、『一九八四年』や『華氏451度』のようなディストピアが描かれています。監視社会と言語の統制という定番のディストピア世界を、ウェブという現実のテクノロジーの延長線上に落とし込むことで、より現代に即した“ありそうな未来”にブラッシュアップされていました。
 

「見えない惑星」郝景芳《ハオ・ジンファン》/中原尚哉訳(Insible Planets,Hao Jingfang,2010)★★☆☆☆
 ――「あなたが見てきた魅力的な惑星の話を聞かせて」いいよ。僕はうなずいて笑う。アイフオウーは変わった軌道をめぐっている。自転軸の傾きがおおきく、公転面近くまで倒れている。さらにその自転軸はゆっくりと歳差運動をしている。このため極地の昼は赤道付近の昼より数百倍長い。ゆえに両地域に住む生物の時間感覚は数百倍ずれている。

 カルヴィーノ『見えない都市』の体裁が取られていますが、「だれもが『はい、やります』と言う。しかし実際にはやらない」「安定した社会が成立するものだろうかと疑問が呈されることもある(中略)虚言癖はそれらの障害になっておらず、むしろ役に立っている」あたりの諷刺が見え見えすぎて興醒めでした。同じ惑星で異なる時間を生きる二つの種族のような、面白いエピソードはありましたが。けれど結局、『見えない都市』ではフビライに語る形式だったものがこの作品では男女の睦言になっているため、カルヴィーノ村上春樹ブレンドしたようなミスマッチな作品になってしまっています。
 

「折りたたみ北京」郝景芳/大谷真弓訳(Folding Beijing,Hao Jingfang,2014)★★★★☆
 ――折りたたみ式の街は三つのスペースに分かれている。片面は第一スペースで、割り当てられた時間は午前六時から翌朝六時まで。その後は眠りにつき、地面が回転する。裏面は第二スペースと第三スペースで、それぞれ二日目の午前六時から午後十時までと、午後十時から午前六時まで。老刀《ラオ・ダオ》は生まれたときから第三スペースで暮らし、二十八年間ごみ処理施設で分別してきた。だが孫の幼稚園にはお金がかかる。回転に合わせて非合法にスペースを移動し、危険を冒して手紙を届けることにした。

 『S-Fマガジン』2017年6月号に訳載。二十四時間ごとに回転する街という発想が既にして常人ならざる発想なのですが、それが単なるSFギミックではなく、経済的社会的に必然性を持っているという構造に至っては見事というほかありません。今後世界的に問題になるであろう社会問題を、独裁共産主義的にぶっとんだ方法で解決(?)しているのも、非凡な発想です。
 

「コールガール」糖匪《タン・フェイ》/大谷真弓訳(Call Girl,Tan Fei,2013)★★★☆☆
 ――小一《シャオイー》のことはみんなが噂していた。相手は大金持ちで、一回にいくらもらうのか? 小一に言われたとおり、古い車に乗って中年男がやってきた。「あたしにどうしてほしい?」「ほかの客にしていること」「さあ始めましょう」「車のなかで?」男は目を開ける。何も変わっていない。けれど、運転手が消えていた。両脚が前の座席を突き抜けていく。

 お話を売る少女と、犬の形を取ったお話という可愛いファンタジーです。
 

「蛍火の墓」程婧波《チョン・ジンボー》/中原尚哉訳(Grave of the Fireflies,Cheng Jingbo,2005)★★☆☆☆
 ――私はロザマンドと呼ばれました。千年前に神々の意思を探るのに失敗して首をはねられた祭司が生き延びて、その子孫が〈無重力都市〉をつくったといいます。私たちは夏への扉を抜けて最初に到着した惑星がそこでした。母は魔術師に会いに行ったきり姿を消しました。

 コテコテファンタジーの殻をかぶった何かなのでしょうけれど、どうでもいいです。
 

「円」劉慈欽《リウ・ツーシン》/中原尚哉訳(The Circle,Liu Cixin,2006,2014)★★★★★
 ――荊軻は秦の政王の前で短刀を手に取った。だが政王は荊軻の学者としての才能を見込んで登用した。「そなたはこの二年で驚くべき発明をした。その発想はどこからくるのだ?」「天の理にしたがっているだけです」「それはどのようなものか?」「数学。とりわけ円です」「では円周率を数十万桁まで計算できれば、不老不死の秘密も発見できるのか?」

 秦の始皇帝の宮廷を舞台にした、兵士を使った手作業のコンピュータという発想が狂人じみています。どこまでも無茶苦茶なのに、無茶もここまで振っ切れれば才気となるのでしょう。中国語原典や英訳はどうなっているのかわかりませんが、日本語訳では漢字熟語にカタカナのルビを振ったアナクロニズムがいい味を出していて、しかも読みやすさに一役買っています。それだけに、最後の「計算機械です」は言わずもがなで余計でした。長篇『三体』から抜粋した章の改作。
 

「神様の介護係」劉慈欽/中原尚哉訳(Taking Care of God,Liu Cixin,2005)★★★★☆
 ――神のせいで秋生《チウション》一家は大騒ぎだった。はじまりは三年前。二万隻の宇宙船が空に広がり、全世界の大都市に高齢の浮浪者が現れた。進化した文明が老後のために三十億年前に地球に生命の種を植えつけたのだという。文明に頼りすぎて退化した神たちは、宇宙船に保管された技術と引き換えに地球で暮らすことを要求した。だが技術は進みすぎていたため人類の手には負えず、家庭で暮らす神たちは厄介者でしかなかった。

 「円」は頭のいい人が書いたバカな話というところが円城塔みたいだと思いましたが、この「神様の介護係」は筒井康隆みたいなバカさでした。そうかそういう意味での創造主かあ。全世界で一家に一人の要介護者がいてしかもしばらくは死なないという、高齢社会を極北化させたコンタクトSFでした。「円」もそうでしたが、振り切れ方が気持ちいい。
 

「ありとあらゆる可能性のなかで最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF」劉慈欽/鳴庭真人訳(The Worst of All Possible Universes and the Best of All Possible Earths: Three-Body and Chinese Science Fiction,Liu Cixin,2014)
 ――中国の主なSF読者は高校生から大学生だ。しかし『三体』はなぜかIT起業家の注目を集めた。刊行当時の中国SF市場は落ち込んでいた。〈三体〉の最初の二巻は文芸としての質やリアリズムを向上させる努力をしていた。だが第三巻は遠未来の宇宙を語らざるを得なくなった。だが人気につながったのはこの第三巻だった。中国の読者の思考パターンも変化していたのだ。

 こうして見ると、科学啓蒙小説~科学と未来への驚異~多様な作品群という流れはどこの国でも変わらないのだなと思います。
 

「引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF」陳楸帆/鳴庭真人訳(The Torn Generation: Chinese Science Fiction in a Culture in Transition,Chen Qiufan,2014)
 ――個人の感じる落伍感と喧伝された国家の繁栄の間には越えることのできない亀裂が横たわっている。その結果が、一方は政府に反射的に反抗して政府の見解を一切信じず、他方はナショナリズムに閉じこもることで自分の運命を握っている感覚を得る、両極端に分かれた人々だ。

 読みづらい文章ですし、「SFはかすかな可能性をこじ開けられるとわたしは信じている」というのも、ちょっと文学的に過ぎる表現です。
 

「中国SFを中国たらしめているものは何か?」夏笳/鳴庭真人訳(What Makes Chinese Science Fiction Chinese?,Xin Jia,2014)
 ――「中国SFはどう中国的なのですか?」簡単には答えられない質問だ。西洋の読者は中国SFを読むことで、中国の近代化を追体験し、新たな別の未来を想像するきっかけにできるだろう。中国SFは中国に関する物語ばかりではない。わたしの「百鬼夜行街」もニール・ゲイマン『墓場の少年』と「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」と宮崎駿の映画で脳裡をよぎったイメージを取り入れている。これら異なる物語も共通のあるものを語っており、中国の幽霊譚とSFの間に生まれる緊張関係が同じアイデアを表現するまた別の手法をもたらすのだ。

 ケン・リュウが序文でごまかしていた問いに、中国SFの歴史を振り返りながら答えを見出そうとしています。

 [amazon で見る]
 折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー 文庫版折りたたみ北京 文庫版 

『みんなの怪盗ルパン』小林泰三他(ポプラ文庫)★★★☆☆

『みんなの怪盗ルパン』小林泰三他(ポプラ文庫)

 2016年初刊。出版社&イラストつながりでしょうか、みんなの少年探偵団シリーズに続いてルパン・トリビュートも刊行されています。が、やはり当たり外れが大きかったです。
 

「最初の角逐」小林泰三(2016)★★★★☆
 ――ロナルド・アデイア殺害事件の現場付近を見学していたときのことだった。わたしが家に戻ると、ついさっきぶつかった老人が会いに来た。「何者だ?」「古本屋の……」「古本屋に尾行されて気付かないわけがない」「尾行を感知する方法はわたしに教わったのかい、ワトソン君」「動くな、手を上げろ。おまえはホームズではありえない。モリアーティーの残党なら辻褄が合う」

 角逐とは「力比べ。競い合うこと」。その意味は読めばわかります。のっけからホームズもの「空家の冒険」をなぞるようにスタートするサービスっぷり。ところが原典では老人に正体を明かされてびっくりするはずのワトソン君が、あろうことかホームズに拳銃を向け、モリアーティーの残党呼ばわりするというおかしな方向に転がってゆくのです。果たしてルパンはどこで登場するのかも気になりながら楽しめました。
 

「青い猫目石近藤史恵(2016)★★★☆☆
 ――再会したシモーヌは相変わらず美しかったが、母親の再婚相手の姉である裕福なヴィルヌーヴ夫人に引き取られ、売れない画家である僕にはますます手の届かない存在になっていた。僕は夫人に招かれて庭の絵を描く仕事をしていた。三ヶ月後、夫人の許にルパンの予告状が届いた。僕は猫目石を預かりルパンから守ることになった。

 ルパンにはさまざまな顔があるんですよね。泥棒だったり探偵だったり伊達男だったり。本作で描かれているのは、人助けをするルパンです。なぜ人助けをするかというと、おそらくは女性の魅力に打たれたからだというのが、いかにもルパンらしいところです。
 

「ありし日の少年ルパン」藤野恵美(2016)★★☆☆☆
 ――ラウール少年はできるだけ仕立てのよい服を着て、首飾りの宝石を売り、でたらめの差出人の名でアンリエットに送金していた。それがよりによって首飾りを掏られてしまった、このぼくが。ラウールはスリを追いかけ、その少女が親方から暴力を振るわれていることを突き止めた。ラウールは少女を救うため、少女に勝負を持ちかけた。

 「王妃の首飾り」のあとのラウール少年と少女掏摸の競い合いを描いただけの他愛ない内容のように見えましたが、実は「ルパンの脱獄」で触れられていた「奇術師ディクソンとその助手ロスタ」を描いた、ルパンの前日譚、語られざる事件でもありました。
 

「ルパンの正義」真山仁(2016)★☆☆☆☆
 ――酔った軍人たちが老人に暴力を振るっているのを救ったルパンは、仲裁に入ったドレフュス大尉の人柄に惹かれ、親交を結ぶようになった。ところがドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕された。大尉がユダヤ人だったから罪を着せられたようだ。

 有名人を登場させる趣向がやりたかっただけで、原典に対するリスペクトも感じられず、ただルパン(という名前のキャラクター)がドレフュス事件の冤罪を晴らそうとだらだらと地味な活動をしていくだけの話でした。
 

仏蘭西紳士」湊かなえ(2016)★★☆☆☆
 ――橘美千代はホームズ物語やルパン物語が好きで英語とフランス語を学んでいた。母親が肺病で死んでからは七歳上の姉・小百合が母親代わりだった。だが父親が殺され、容疑者として恋人が逮捕され、下品な父親の従弟から求婚されて小百合は參ってしまった。美千代がフランス人のレニーヌ公爵と知り合ったのはそんなときだった。

 明らかにルパンなのに作者がルパンだとは明言していない作品というのも原作にはあって、それを踏襲しているところがおしゃれです。ルパンが日本に来たという趣向が目を引くものの、肝心の小説の中身はルパンというより日本の探偵小説みたいでした。日本が舞台だからそれでいいのかもしれませんが。

 [amazon で見る]
 みんなの怪盗ルパン(帯)みんなの怪盗ルパン 


防犯カメラ