『Inspecting the Vaults』Eric McCormack,1987年。
ここのところ東京創元社の海外文学セレクションが(しかも幻想系が)立て続けに文庫化されていて嬉しいかぎり。本書にも悪夢みたいな作品がわんさと並んでいる。
「隠し部屋を査察して」(Inspecting the Vaults)★★★★☆
――どの地区にも六つの建物があり、それぞれに一つの地下室がある。地下室は隠し部屋と呼ばれている。七つ目の建物が査察官であるわたしの住処だ。一年に一回、隠し部屋の住人たちを査察しなければならない。わたしが住人の様子をたずねるたびに、建物の管理人は「よくなってきました」と答える。
この作品自体がどうこうよりも、作品の中で描かれている幻想風景がすばらしい。(文字どおり)森を作った男、あらゆる自動機械を発明した男、がらくたと予言を吐き出す魔女、森の中で船を造る男、登るための山を作る男、町民の役割を交換させて町を平定した元町長……。
それぞれの(悪)夢を独立して楽しむだけでいい。無理に一つにまとめる必要もない。わたしにはそれで充分だ。
「断片」(The Fragment)★★★★☆
――わたしがスコットランドにもどるはめになったのは、バートンの『憂鬱の解剖学』のせいだった。バートンは次のように述べている。純潔、沈黙、盲目の誓いを守り続けた古代スコットランドの隠者たちは、ひょっとすると愚劣の極みだったのではあるまいか?
書物自体をでっちあげるのはよくあるけれど、実在の書物を持ち出してくるあたり、念が入っている。嘘を固めるには真実をまぶすのがよい。見ざる聞かざる言わざる(?)を比喩ではなく文字どおり実践してしまったそりゃ愚劣の極みです。ヘンテコな空想民俗学。うそんこ博物誌。
「パタゴニアの悲しい物語」(Sad Stories in Patagonia)★★★★☆
――ミロドンをみつけようとパタゴニアに上陸した探検隊は、焚き火を囲んで悲しい物語を物語った。哀れな少年の身体を改造して神殿の守護者にする呪術者たち、聖人に近いと噂されていた修道士の悲劇、医者と妻と四人の子どもの身に起こったグロテスクな事件……。
グロテスクを通り越して幻想的な第一の物語。比較的現実的な第二の物語。第三の物語で、ふたたびグロテスクな幻想に大きく振り戻される。その揺り戻しの幅が大きいせいで頭がくらくらと眩暈を起こす。おかげでサイコではなくシュールな幻想ホラーに着地しています。
「窓辺のエックハート」(Eckhardt at a Window)★★★★★
――エックハート警部は一年前の男女の死について考える。美しい金髪女性が死亡事故を通報してきたのである。彼はガラステーブルに腰かけたに違いない。割れたガラスの破片に串刺しにされたのだ。夜も遅いので、次の日から捜査を始めるはずだった。だが彼女は警察署から姿を消した。
絵、ですね。ジャック・プレヴェールのカバーイラストみたいな、不気味で怖くて意味のわからないシュールで魅惑的な絵。謎めいた美女、額から罪の血を流す人殺し、ガラスの破片に串刺しにされた死体、動機、犯人、事件の構図。ひとつひとつが奇妙に心惹かれるのだけれど、それらがひとつにまとまってまったくわけのわからない作品ができあがる。でもその完成品もまた心惹かれるのだ。
「一本脚の男たち」(The One-Legged Men)★★★☆☆
――いまきみは彼らのなわばりにいる。彼らはむやみにつまづく。たえずバランスに気をつける。立ちあがるときは腕でからだを持ち上げる。一本脚の男たちが異常に多い町として、ミュアトンを一躍有名にしたあの炭鉱事故は、わたしがこの教区に赴任した年に起こった。
これもうそんこ博物誌かと思ったら、なんと実録(?)モノだった。グリフォンや龍の剥製(もどき)は面白いけど、人体剥製は気持ち悪いよォという感じで、おんなじグロテスクが描かれていても、いつかの時代のどこかの島ならともかく、現実と地続きの鉱山現場が舞台だとだいぶ受ける印象が違う。実際に描かれている内容云々は別にして、受ける印象では本書中でもいちばんグロテスク。
「海を渡ったノックス」(Knox Abroad)★★☆☆☆
――航海は終わった。宗教改革者ジョン・ノックスは、愛猫クールティとともに、ついに上陸した。ガレー船では奴隷ということになっていたが、彼は主人であり、そのことは誰もが知っていた。
スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスの改変歴史物語。これでは宣教というか単なる怪奇探検家である。「新世界」「旧世界」という言葉をわざと誤読したというか、その言葉から自由に空想の羽根を広げて、実在しない「新世界」を作りあげてしまった作品。
「エドワードとジョージナ」(Edward and Georgina)★★★★☆
――エドワードとジョージナは兄妹である。口さがない噂がつきまとってはなれない。だれもふたりのことが好きでないのだ。エドワードになにか言っても、「ジョージナが承知しないだろうと思う」と答えるだけだった。
『サイコ』っぽい話をおかしなファンタジーにしてしまった。グロテスクなはずなんだけれど、どこか哀感とユーモアただよう叙情的な結末です。探偵の存在が大きいのでしょうか。家庭や男女の悲劇を目の当たりにしながらどうにもできないハードボイルド探偵みたいな雰囲気が漂ってました。
「ジョー船長」(Captain Joe)★★★★★
――祖父ははじめからジョー船長とうまがあい、少年はふたりといるのを好んだ。なにごとも永遠にはつづかない。村に来て二年目の冬に、船長は死にはじめた。船長はここにくる前の人生について、少年に打ち明けはじめた。
どちらが表でどちらが裏かなんてわからない。船長や少年たちにとってはそれが夢の表側だったのだ。ちょっとセンチメンタルな掌篇ファンタジー。
「刈り跡」(The Swath)★★★☆☆
――あれが始まったのは一年前の今日のことだ。不思議な亀裂が疾走しはじめた。通過したあとには巨大な溝が残された。溝の側面や底面は大理石のようになめらかだった。
あまりマコーマックらしくない、フレドリック・ブラウンかロバート・シェクリイかのような明るい大ぼら話。物語の結び方がマコーマックらしいといえばらしいが。
「祭り」(Festival)★★★★★
――ふたりが祭りに行って、ひとりが帰ってきた。「本気なの? ほんとに参加するつもりなの?」「もちろんだよ」祭りの三日目の夜、われわれは歩いて体育館に向かった。
本人の側からするならば、この結果は望んだことであるはずなのだ。騙されていようといなかろうと。なのにやりきれない思いがするのはなぜなのだろう。そんなのは都合のいい言い訳なのではないだろうか。いずれにしても彼は撃ったのだ。町人たちの歓声がほしかったのか。きみは悪くないというお墨付きがほしかっただけなのか。
夫婦の倦怠と祭りの異様な熱気に包まれた、悲しく酸っぱい物語。
「老人に安住の地はない」(No Country for Old Men)★★★★★
――あるクリスマスパーティのことである。ひとりの老人が先の大戦の苦い思い出を語りはじめる。「殺した敵のなかで、ひとりのドイツ兵のことだけははっきりと覚えている……」
過去の夢と現実と未来の夢が交錯する悪夢のような作品。いや、夢に託してそれぞれが嘘と真実を語っているだけなのか。クリスマスパーティとはいいながら、これは私設裁判ではないのか。タイトルはイェイツの詩「ビザンチンへの船出」の冒頭「あれは老いたる者の住む国ではない」から。ここは穢れた魂を持つ老人の住む国ではないのです。
「庭園列車 第一部:イレネウス・フラッド」(A Train of Gardens Part I:Ireneus Fludd)★★★☆☆
――以下の記録はフラッドの未発表の原稿の引用である。オルバト島の男児はサルガを食べ続ける。代償はきわめて過酷である。麻薬を入手する代償として、からだの一部を献げなければいけないのだ。
著者お得意のうそんこ民俗学博物誌。セックスシーンがギャグみたいなのはギャグだと思っていいのか。「トカトントン」みたい。
「庭園列車 第二部:機械」(A Train of Gardens Part II:The Machine)★★★☆☆
――フラッドの夢想する「庭園列車」はそこを訪れた人々にとってすばらしい体験でなければならなかった。自然の極致でなければならなかった。それぞれの車輛には「庭園列車」のエピソードが満載されている。
これも著者お得意の奇想を惜しげもなく作中作の形でずらずらと並べてくれた作品。七号車まである車輛のひとつひとつがおぞましくもエロティックな秘境譚。
「趣味」(The Hobby)★★★★☆
――老人はいつも鉄道時代のことを思い出していた。いつも地下室で作業にとりかかっていた。やらなければならないことが山ほどある。線路を敷設したり、発電機をつないだり。
空想の世界に遊ぶ住人がついに帰らなくなるのであればそれはそれで本人にとっては幸せといえるのかもしれないけれど、その妄想が他人を巻き込むとなるとただではすまない。老人がつくっていたのは現実と妄想をつなぐ線路だったのだろうか。終わりのない不安が恐怖感をあおる。
「トロツキーの一枚の写真」(One Picture of Trotsky)★★★☆☆
――外套をまとった女たちは、いつの日か処女が絞首刑にされた男の子どもを宿すだろうと話して聞かせたということにしよう。ジェニーは妊娠し、双子を産んだ。エベニーザーとアビゲイル。アビゲイルは写真家になったということにしよう。
すべてが仮定で語られる。問題なのは、アビゲイルがトロツキーの写真を撮ったということと、死者の写真を撮るようになったこと。
「新聞で報道される残虐行為についてだれかが口にするたびに、彼女はいつもこういうのだった。『トロツキーのはずがないわ。わたしは彼の写真をもっているし、そのことばはひとつも信じないわ』」「あらゆるものを写真に撮るのを好む。ことばをまったく信用していないのだ」「写真をうみだすのは被写体であって、写真家じゃないわ」
この作品で描かれているのは、“写真には真実が写る”という単純なことだと考えていいのだろうか。だから写真集に題名はいらない。真実はそこにあるのだから。そんなストレートなテーマなんか書かないような気もするけれど、まあ仮にそうであるにしたってひねくれた書きようではある。
「ルサウォートの瞑想」(Lusawort's Meditatio)★★★☆☆
――正午。ジョン・ジュリアス・ルサウォートのからだはベッドであおむけになっている。がにまたのアゾレス諸島出身者ダ・コスタのことを考えようとする。
「トロツキーの一枚の写真」に登場する“言葉に襲われる娘”の発展形のような、光や音に襲われる捕鯨名人ダ・コスタの物語。「生きるには善良すぎた」男の死を悼む話なのかと思いきや、悪意といえば言い過ぎだけど生きるしたたかさみたいなものの感じられる作品。
「ともあれこの世の片隅で」(Anyhow in a Corner)★★☆☆☆
――「骨董品の愛好家でいらっしゃるのはほんとうですか?」「読者にあなたのプロフィールについて紹介してください」「最近はどんな作品を書いていますか?」
作家へのインタビューを戯画化したような作品。
「町の長い一日」(A Long Day in the Town)★★★★★
――路上に荷車を引いている女が見えた。荷車には死体があおむけに横たわっていた。「疫病ですね」「いいえ、いいえ!」一時間ほどは何も起きなかった。ちびちびとビールを飲んでいるうちに、男がささやき声で言った。「あんたはあいつらのひとりじゃないな」
なんだろうここは。妄念の集まる町。娘の死を認めない女、命を狙う家族から逃げ続ける男、全身整形をしたつぎはぎだらけの女、ニトロを呑み込んだ人間爆弾。この著者の人体改変描写などはなぜかグロテスクとは感じられないのだけれど、こういう生臭い空気にはいいようのない気持ち悪さを感じる。ひとつひとつのエピソードだけならともかく、それらが集まって町という共同体が形作られているところが不気味なのだ。当然その町では、こちらではなく向こうが正常なのである。
幻想ホラーとしては本書中でもベスト。
「双子」(Twins)★★★★☆
――人々は群れをなしてやってくる。マラカイは病気である。ふたつの異なる声で同時にしゃべる男なのである。母親はこう考えた。双子になるはずだったのに、どういうわけか分離しなかったんです。
分離しなかった双子という奇想アイデアで勝負あり。結末も怖いが双子だけでもじゅうぶん怖い。
「フーガ」(The Fugue)★★★★★
――いまごろ男はそこにいるはずだ。だれかが後ろに近づいてナイフを振りかざしているとは気づいていない。男の注意は本に集中されていた。しかし彼は現実の生き方の方が好きだった。
エピグラフに引用されている「コルタサール」というのは『悪魔の涎』『石蹴り遊び』のコルタサルのことだろうか。そうするとどうしたって「続いている公園」を連想してしまう。“本を読んでいる男のうしろで……”という表層が似ているだけで、虚構が現実を浸食する「続いている公園」とはまるっきり違うのだけれど。〈意識の流れ〉というか、なんでしょう、〈行動の流れ〉とでもいいたいような一連の流れるような作品。
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