『チャンセラー号の筏』ジュール・ヴェルヌ/榊原晃三訳(集英社文庫)★★★★★

 『Le Chansellor』Jules Verne,1875年。

 ジュール・ヴェルヌ作品の面白さは誰もが認めるところですが、物語が佳境に入るまでが停滞しているというのも、ときに指摘される欠点でした。

 その欠点を見事にクリアしているのが本書です。

 8人の乗客と14人の乗組員を乗せたチャンセラー号は、出航と同時に通常の航路から外れて、のっけから語り手カザロンや副船長カーティスらを不安に陥れます。この船長の精神的不安という要素をヴェルヌが導入したのが、序盤からサスペンスを盛り込むためなのか、手っ取り早く最終到着地である南に船を近づけておきたかったからなのか、その真意のほどはわかりませんが、結果的にはヴェルヌの目論見は大成功しています。

 それから火事、爆薬、嵐……日本語タイトルに「筏」と入っているため、ついつい難破してからにばかり注目してしまいますが、難破するまでのあいだにも、かなり濃いドラマが凝縮されていました。浸水という現象が消火と沈没、爆薬が爆発と発破、人の死が命の喪失と肉の発生……というように、一つのことに二つ以上の意味が担わされているのも本書の特徴で、さまざまなドラマに加えて、こうしたことが比較的短い本書をより充実した作品にしているのだと思います。

 だんだんと減ってゆく乗員乗客たち、迫り来る飢え、悪漢と正義漢の対立。こういった定番もドラマを盛り上げます。

 終盤、狂気に襲われて自分を引っ掻きながら海に飛び込んで死んでしまう人物がいました。この時点では、そうした行動も小説を盛り上げるためのいかにも狂気らしい描写にすぎないのだと思っていました。ところがその後、飢えと渇きに耐えられなくなった語り手が自分の血を飲もうとする場面に遭遇し、思いを改めさせられました。海に飛び込んだ人物も、ただ単に気が狂ったのではなく、それしか水分がないというところにまで追いつめられていたのだと――。

 どちらかといえば娯楽要素の強いヴェルヌの作品群にしては、この作品は人間としての一線を越えてしまう者たちも存在します。主役格たちが生き残るという点では、ほかのヴェルヌ作品同様〈安全な冒険〉と言えなくもありませんが、やはり危険との距離感がほかの作品と比べて近づいていると感じました。

 船や陸地を求めて血眼になっていた遭難者たちをからかうように、視覚以外のものによって偶然から陸地に近いことが判明するのが、皮肉であると同時に感動的でした。作中の言葉を信じるなら、この場面にはアマゾン川がなくては成立しません。最終到着地をどこにするかというところまで著者により考え抜かれているからこその感動であることがわかります。

 ドラマ、サスペンス、冒険、完成度、どれを取ってもヴェルヌの代表作に数えられるべき作品でした。

 大西洋航路をアメリカからイギリスに向けて航行中の快速帆船チャンセラー号は、不慮の事故から火災を起こし、航行不能に陥ってしまう。火との闘い、沈没の恐怖を乗り越え、なんとか生還しようと乗客と乗組員は筏を作り漂流を始めるが……襲いくる嵐、餓えと渇き、そして悲劇的な出来事が……極限状況下でのサバイバル劇を迫真の筆致で描く、本邦初訳の傑作。(カバーあらすじ)
 

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