『リア王』シェイクスピア/安西徹雄訳(光文社古典新訳文庫)★★★★★

 『リア王』って四大悲劇の中では地味な感じがしていた。名前が有名なのは『ハムレット』だろうし、名場面・名台詞集といえば『マクベス』かな。『オセロー』はオセロゲームというのがあるせいで子どものころ聞いたときにインパクトがあった。で、『リア王』。地味なせいもあって未読でした。

 いや、これがめっぽう面白い。これぞ翻訳の力ですね。戯曲特有の読みづらさなんてない。小説を読んでいるみたいにすらすら読める。しかも並の小説よりも面白い。そりゃシェイクスピアなんだから面白くて当たり前なんだろうけど、でもシェイクスピアの魅力をここまで引き出した翻訳っていままでなかったと思う。

 「私の訳した台本は、合計して何十回、時には百回を超えて役者の口にかかることになる。(中略)私の翻訳台本は、現にそうした現場の酷使に耐えてきた。」という訳者の自負もむべなるかなです。同じ訳者の『ジュリアス・シーザー』も文庫化されたので嬉しいかぎり。

 読んでみて初めて知ったこと。コーディリアの出番ってこんなに少なかったんだ、ということ。コーディリアの愛とリアの絶望の物語かと思っていたんだけど、これはリアの絶望&長女次女たちのピカレスク物語ですね。こいつらに比べたら『マクベス』なんかメじゃない。というか、この同情の余地なき極悪人と比べるおかげで、『マクベス』はピカレスクではなくて人間的弱さの物語だったんだな、というのが改めてよくわかる。

 もちろん『リア王』にだってそういう部分は皆無ではなく、それは絶望の果てに気が狂うリアを通して描かれていたりするんだけど、気が狂うまでの絶望を台詞で表現するのっておそろしくむずかしいと思う。気違いのふりをするエドガー、気が狂ったリア――この二人に関して言えば、シェイクスピアよりもむしろ舞台で演じる俳優の才能如何にかかっていると思う。下手な俳優が気違いの演技をしているのを観て、あまりのサブさに自分の血の気が引くのが目に浮かぶよ。名優の演技を通さない、生のままの台詞である本書も同様。こればっかりは翻訳の出来不出来ではなくて、脚本というものの限界なのでしょうがない。

 道化という日本には存在しない役職(?)の台詞とその訳し方も、シェイクスピア劇(及び古典劇)の永遠の課題だろうなあ。わたしは楽しめたが、翻訳ものに慣れていない人が読んだらやっぱり違和感があると思う。

 ピカレスクの部分、ケント伯の奔走部分。そういう、動きのある活劇部分に関しては本書の翻訳はほんとうに一級品だと思いました。冒頭にも書いたように、戯曲ではなく小説を読んでいるようにすらすら読める。『このミス』ベスト・テンに入ったっておかしくないような犯罪小説だゾ。

 とつぜん引退を宣言したリア王は、誰が王国継承にふさわしいか、娘たちの愛情をテストする。しかし結果はすべて、王の希望を打ち砕くものだった。最愛の三女コーディリアにまで裏切られたと思い込んだ王は、疑心暗鬼の果てに、心を深く病み、荒野をさまよう姿となる。(裏表紙あらすじより)
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