『石川淳長篇小説選』石川淳/菅野昭正編(ちくま文庫)★★★★☆

「白描」★★★★☆
 ――そうだ、彫刻こそ自分のえらぶべき仕事なのだと少年はひそかに決心しつつ、そのほうが美術家的だと名を金吾と改めた。兵作としては留守居のつもりで、金吾をリイピナ夫人のもとにやった。金吾が興奮したには理由がある。建築家のクラウス博士が夫人のもとに泊まっていたからだ。ふいに戸口でベルが鳴った。金吾はなにげなく扉を引くと、とたんに、どきりとして息をのんだ。ブラウスを着た美しい少女が生きいきと立っていた。

 悪くはないんだけど、短篇の方が好みだな。短篇に溢れていた、一分の隙もない鳥肌の立つような完璧な熱気というものは、さすがに長篇では持続されない。ただの好みの問題なんだけどね。生のままの思想が台詞や手記として長々と書かれているあたりに、熱気のようなものが感じられる。読み返すたびに、印象に残る人物が違ってくるような気がする。今回は敬子と武吉の生き方が記憶に残った。まあ小説のなかでは俗っぽい部分ですな。
 

「八幡縁起」★★★★★
 ――岩の中に住むためには、横穴をうがたなくてはならない。石別。もとの名はすでにわすれた。里のものが入口のところに、持参のしなじなを置く。ほどへて、また来る。すると、さきのしなじなは消えて、代りに他のしなじなが置いてある。岩穴の中に、石別は安泰であった。……「目ざわりな山じゃ」里の長は遠くから山をにらんだ。そこにそそり立つ岩は犯しがたい鉄壁であった。

 傑作なんだけど、なぜこれを? 「紫苑物語」と比べると入手しづらいからとか書かれていたが、現在容易に入手できる講談社文芸文庫版『紫苑物語』にはどちらも入っているのに。長篇じゃないし。占った吉凶を偽って告げるように、神というものも自分の都合のいいように解釈するものなのだ。為政者が正史を捏造するように、縁起もゆがめられてゆくものなのだ。神はいたのかもしれない。いるのに、人が見なくなってしまっただけなのか。というそもそもが捏造なのか。そんなことをフィクション=捏造の形で描いたアクロバティックな傑作。
 

「天馬賦」★★★★☆
 ――「大学もひどいことになりましたわね」「ひどいめに遭ったのは、たたかれたガキどものほうだ」大岳は口に出してたずねた。「イズミは毎晩かえりがおそいな」「はい。きょうは救援部隊とかで」そのとき、イズミがかえって来た。泥まみれでも、ケガはない。「おじいさま、このひとムラキさんというの。運送屋さんよ。わたしが棒でやられそうになったのを助けてくれたのよ」「運送屋。そのとおりだよ。イズミというお荷物を運搬しちゃったんだからな」

 学生運動世代が書いた運動ものは数あれど、運動に対する大人の側からの回答というのは初めて読んだ。昭和33年、石川淳59歳。石川淳がもし当時若かったら、と夢想してみる。石川淳であれば、若くしてなお迷走することはなかっただろうという気がする。本書に描かれるのは、後の全共闘と比べると、政府が直接の相手であるだけまだピントが合っているが。いつの時代の若者風俗であれ時間を置いた目で見ると失笑ものでしかないんだけど、その点では本作品も表面上は失笑ものの会話のオンパレードなのはご愛敬。
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