『聖母の贈り物』ウィリアム・トレヴァー/栩木伸明訳(国書刊行会〈短篇小説の快楽)★★★★☆

 何気ない日常に容赦ない理不尽が襲いかかる話ばっかり書く人である。血の通った人間と血も涙もない運命。運命はときに聖母の姿を、ときに思い出の姿を、ときに子どもの姿で現れる。感じやすい人間は嵐に揉まれてぼろぼろになるしかありません。
 

「トリッジ」(Torridge)★★★☆☆
 ――トリッジはある意味独特だった。うけ狙いじゃないと信じるのはちょっと難しいくらい天真爛漫なやつだった。「トリッジ君は本当の幸せを知っている」というのが笑いのタネになった。

 思い出が現在に牙を剥く。周囲の人間を楽しませるアホみたいな思い出のエピソードを読者も楽しませてもらったからこそ、その後の展開はショッキングです。読者としては奥さんや子どもの立場に近い。打ちのめされるというよりは、どう反応していいのか迷う。何この人?って感じで。前半があるせいで復讐譚みたいにも読めるけど、たまにいるデフォルトで嫌な変人の話だと思った方が面白い。前半のアホアホエピソードが好きな人間は断罪されてしかるべきなのだろうか?
 

「こわれた家庭」(Broken Homes)★★★★☆
 ――「火曜日に、キッチンの壁を塗り替えにうかがいます」「ほかのお宅の間違いではないかしら?」「あなたのことを考えているんですよ」八十七歳ともなれば、精神をしっかり集中しておかなくちゃ。ぼけていると決めつけられがちですものね。

 好みにもよるだろうけど、因果関係を読み取りたくなる「トリッジ」よりも不条理な突風のようなこちらの方がいい。「ミリアム」とシャーリイ・ジャクスンを合わせたような感じかな、(偶然だろうけど)高齢者リフォーム詐欺のような導入を用いることで、自らの心の闇なのか他者の理不尽なのかに迷いが生じる老嬢同様に、読者にも迷いが生まれることになる。あいつらがおかしいんじゃないの? いや、自分に落ち度があったのかも?……という。
 

「イエスタデイの恋人たち」(Lovers of Their Time)★★★★★
 ――それ以後ふたりは毎日一緒に、ランチを食べるようになった。こっそりとホテルのバスルームで過ごす時間を支配していたのはロマンスの力であって、肉体関係に駆り立てた衝動を神聖だと認めていたのは、真実の愛の存在であった。ところがしばらくすると憂鬱の影がよぎるようになった。「きみと離れてると悲しくてやりきれないんだ」とノーマン。「奥さんに言ってよ」とマリー。

 束の間だけヒーローとヒロインになれた恋人たちの物語。やがて絵に描いたような、“逃避だからこその美しさ”を突きつけられるはめになるのだけれど、しかしそれにしても“突きつける側”の人たちは誰も彼も恐ろしいほどにパワフルな人たちばかりです。悪役っぷりがいいとでもいうか。冴えない中年男と魅力的な若い女の組み合わせという、それこそ中年男が自らを主人公に妄想を思い描いたような話なのですが、それだけに(?)夢見るようにロマンチック。単純に恋愛小説として読んでも充分な出来栄えです。
 

「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」(The Raising of Elvira Tremlett)★★★☆☆
 ――カトリックのぼくがプロテスタント教会へやってきてプレートやらを見て回っているのを見て、用務員のおじいさんも悪い気はしなかったかもしれないな、と思った。エルヴィラ・トレムレットというひとをご存じありませんか、と尋ねてもよかったのだ。

 空想の友だちを作る孤独な子どもというパターンも、この人にかかると一筋縄ではいかない。感化院に送られた語り手の話をもとにして他人が創作した一人称の作中作という、なんともひねこびた構成。
 

アイルランド便り」(The News from Ireland)★★★☆☆
 ――執事用のお仕着せを着たフォガーティが最近惹かれているのは、着任したばかりの家庭教師である。アンナ・マリア・ヘッドウ。感受性が豊かで、アイルランドのことは何も知らないよそ者である。

 たまにこういう説教臭いというか、ありきたりの「表と裏」ものとでもいうべき作品もある。『ミステリマガジン』2006年2月号掲載の「電話ゲーム」もそんな感じでした。アイルランドイングランドカトリックと新教、使用人と知的階層。これだけあからさまだと、わざとなのだろうけれど。

 所詮は「アイルランド便り」、旅人の見た紀行文――だけどもちろん自信の根拠は、自分は地元で昔からの使用人というだけ。相手から見ればそれだって「使用人便り」でしかないのでしょう。
 

エルサレムに死す」(Death in Jerusalem)★★★☆☆
 ――「来年はおもいきって聖地に行こうじゃないか」ポール神父が弟のフランシスにそうもちかけた。店の仕事を投げ出すわけにはいかないし、自分が家を留守にしたら母が動揺するから、といくら説明しても聞く耳を持たなかった。

 タイトルから『ヴェニスに死す』を連想してしまうんだけど、どっちかというとそこからさらに「ヴェニスを見て死ね」という格言からの発想かな。「聖地を見て死ね」。〈信仰〉と〈マザコンというあり得ない対立軸に笑ってしまった。
 

マティルダイングランド(Matilda's England)

「一、テニスコート(1.The Tennis Court)★★★★★
 ――ミセス・アッシュバートンは言った。「チャラコム屋敷にはテニスコートがあるから、プレーしたくなったときにはいつでもどうぞ」ディックに言わせれば、ぼくたちに古いテニスコートをきれいにさせようって魂胆だよ、となる。

 老嬢と子どもたちの何気ないささやかな交流を描いて忘れがたい余韻を残す作品なのですが、やはりそのままでは終わりません。ほかの作品とは違い、とてつもなく残酷なことをあからさまじゃなくさらっと書いているだけに、かえって衝撃度は強い。思い出に生きるお婆さんと今を生きる子どもという、本来なら何の接点もないはずの二者が、時間を超えて直結します。
 

「二、サマーハウス」(2.The Summer-house)★★★★★
 ――父は二度、予告なしに、突然戻ってきた。それから数週間後、父の戦死を聞かされた。木曜日ばかり重なったのは驚くべきことだ。きっと父が殺されたのも木曜日だったんじゃないかしら、と思った。

 子どもの残酷さと美しさと危うさ、そして運命の残酷さ。〈二つの願い〉もの。物語の最後に、決定的な事態が訪れます。その後の人生を歪ませてしまうような転機が。それでもマティルダのことは好きにならずにいられない。残酷ではあっても揺るぎない意思というものは、やはり輝いて見えます。
 

「三、客間」(3.The Drawing-room)★★★★★
 ――わたしは屋敷の客間で、より正確に言えばミセス・アッシュバートンのライティングデスクで、これを書いている。わたしはもう六十歳の老婆になったような気がするが、まだ四十八歳である。

 さすが「トリッジ」の作者。これまでの二篇をあっさり切り捨てる。あいだの十年、その後の三十年に、囚われてしまった女の物語。揺るぎない意思というのは妄執と紙一重なのですね。トレヴァー、意地悪すぎです(^_^;。(ある意味)円環状の物語であるだけに、人生の悲劇だけではなく、再び起こるかもしれない戦争の影すらちらつく(幻視してしまう)。
 

「丘を耕す独り身の男たち」(The Hill Bachelors)★★★☆☆
 ――「みんな帰ってくるわけだ?」「そうです、みんな帰ってきますよ」みんなというのはポーリーのふたりの兄とふたりの姉のことだ。「ポーリー、父さんに会ってやっておくれ」息子は、父の遺体に会うために、母のロザリオを借りた。

 どうしても善意というよりは腹のさぐり合いに思えてしまうのは、これまでのトレヴァーを読みすぎたせいか、もともとわたしの意地が悪いのか(^^;。
 

「聖母の贈り物」(The Virgin's Gift)★★★☆☆
 ――「孤独を求めなさい」――聖母の言葉を信じてアイルランド全土を彷徨する男を描く表題作(帯あらすじより)

 宗教心のない日本人のわたしなんかから見ると、聖書のパロディみたいに思えてしまうのですが(ヨブとか。その他にもいろいろイエスがやらかしてる)。病は気からというか鰯の頭も信心からというか、“被害者”の方がよい方に考えてくれるんだもの。ちょっといい話のようにも見えるけど、とんでもなく毒のある皮肉な話だとも思います。訳者は「冷淡な皮肉ではあるまい」と書いてるけどね。
 

「雨上がり」(After Rain)★★★★☆
 ――二階のサロンでハリエットは考える――子どもの頃の思い出の場所のこのこやってきたのは、過ぎ去った幸せにやすらぎを求めているから? 恋が終わったときには頭の中がめちゃくちゃになって、真実が霧に隠れてしまう。なんでこうなってしまったのか。なれない一人旅に出てきたのだ。

 最後の最後に前向きで爽やかな作品が待っていました。普通なら接点など意識しない二つのものが、「雨上がり」というキーワードでつながる瞬間が感動的。ものがものだけに「スケッチをする男」という存在も意味深です。
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