『日本文学100年の名作2 1924-1933 幸福の持参者』池内紀他編(新潮文庫)★★★☆☆

「島守」中勘助(1924)★★★☆☆
 ――島にひとりいれば心ゆくばかり静かである。福岡の妹が危篤という電報がきた。昼飯の支度をするのも懶い。ぼんやり寐ころんでいる。朝目をさますと同時に妹を思った。きょうの悲しい最初の思い出である。□□子はまだ生きているような気がする。夜。島のまわりを一本足のものが跳んであるく音がする。なに鳥か闇のなかをひゅうひゅう飛びまわる。

 中勘助自身を思わせる島守の日記。だらりとした日記のなかに、ときどき変なエピソードがあって面白い。生まれ変わったらかわせみになりたい、とか言われてもね。。。
 

「利根の渡」岡本綺堂(1925)★★★☆☆
 ――座頭が利根川の岸に立っている。「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。渡し小屋に住んでいる平助という爺さんが、気の毒に思って小屋に泊めることにした。それがある夜ふけに眼をさますと、座頭が太い針のようなものを磨いでいるのを見て薄気味悪く思うようになった。

 出来すぎた話、ではあります。そのくせ、按摩は十一年苦しんだのに、仇が六年で死んでしまっては、釣り合ってないような気もします。按摩の妄執が恐ろしかったのに、ただの祟りの話になってしまった、とも言えます。既読ですがすっかり忘れていました。
 

「Kの昇天――或はKの溺死」梶井基次郎(1926)
 →『日本幻想文学大全 幻視の系譜』で既読。

「食堂」島崎藤村(1926)★★★★☆
 ――お三輪が伜の新七から便りを受け取って、東京の食堂に行こうと思い立つ頃は、震災後満一年にあたる頃であった。誰が主人でもなければ誰が使われるのでもなかった。広瀬さんも小竹の家に身を寄せていた時分とは違い、友達同志として経営するこの食堂に遠慮は無用だった。「お前さんはもう未練はないのかい、あの小竹の古い店の暖簾に」それを新七に聞いてみたいばかりに三輪は上京したようなものだった。

 震災を境に「新しい時代」に生きようとする若者と、それを寂しく思わないでもない母親。道は分かたれるのか、共に歩めるのか――クサい言葉ですが、それを分けるものは絆なのかな、と思わないでもありません。何もかも失ってしまって、すでに死んでしまった母親の思い出(しつけ)だけを恃みにする三輪とは違い、新しいよすがを作っていけるのが若さというものなのかもしれません。新しい食堂のメンバーの何と生き生きとしていることか。
 

「渦巻ける烏の群」黒島伝治(1928)★★★★☆
 ――若しそれが恋と呼ばれるならば、不如意な恋だった。松木は兵卒に配給すべきパンや砂糖を新聞紙に包んで丘を登った。「今晩は、ガーリャ!」開いていた窓にカーテンがさっと引かれた。将校にでも見つかると困る――と思いながらも、このまま帰るのは意気地がないと、ガンガン硝子戸を叩いた。しばらくするとガーリャが顔を出した。「いらっしゃい」「誰が来ていたんです?」「マイヨールです」「振《ま》い寄るとはダンスでもする奴かな」

 戦争にかぎらず世の中の事故などの大半は、恐らくこうしたくだらないことが原因で起こっているんだろうな、と思うくらいにくだらなく、死を間近にしてさえ小学校のいたずらやガキ大将レベルのことをしていて愕然とします。タイトルにもなっている黒い大群のイメージが鮮やかでした。
 

「幸福の持参者」加能作次郎(1928)★★★★☆
 ――近所に一軒の草花屋があった。若い妻は草花類を見るのも好きだったが、虫の音を聴くこともまた好きだった。或る日、妻は今度こそと心を決し、蟋蟀を一疋、粗末な籠に入れたのを買った。「ほ、何だい?」夫は思わず眼をやった。「いいでしょう?」「面白いものを買って来たね。いいね、大いに気に入った」

 ささやかな温もりと無頓着な残酷さの時間的ギャップが、小説という形に凝縮されているからこそ、最後の冷たさにぞっとしますが、ここに描かれているようなことは誰もが日常的におこなっていることではないでしょうか。作者の目は残酷ではないところがポイントで、日常を日常的に描くだけで、切り取りようによっては小説たりえるのだとわかります。
 

「瓶詰地獄」夢野久作(1928)★★★★☆
 ――この離れ島に救いの舟がとうとう来ました。お父さま、お母さまのなつかしい姿が見えます。けれども、それは、私たち二人にとって、審判の日のらっぱよりも怖しいものでございました……/私とアヤ子の二人が漂れついてから、もう何年になりましょうか。その時に私たちが持っていたのは、一本のエンピツと、ナイフと、ノートと、ムシメガネと、水の入ったビール瓶と、小さな新約聖書が一冊と、それだけでした……。

 救いが来たからこそ死ななければならないという印象的な逆説で幕を開け、罪を知ったいきさつが長く綴られ、罪を知らないカタコトの手紙で幕を閉じる構成が見事です。
 

「遺産」水上瀧太郎(1930)★★★★★
 ――おもいがけない大地震は、彼の借家と、堂々たる隣の家との境界を取り払ってしまった。あんまり高くて忌々しい煉瓦塀が、彼の借家の庭に倒れ込んでいた。隣の家の先代は、金貸をして一代で身上をつくり、鬼五郎と呼ばれた人間だった。そのせいで現当主は子どものころからいじめられ、高い塀から一歩も出ずに現在に至っていた。地震によって取除かれた煉瓦塀の崩れから、井原富吉氏と彼との交通は自然に開けた。

 「此の際」。嫌な言葉です。昨今の「自粛」なんかを見ても、人間は数十年では変わってないのだなあとがっかりします。閉じ籠っていた隣人との、ひょんなことから開けた心の交流が一方にはあれば、人間的にも大局的にも愚かとしかいいようのないDQNのノリだけが一方にあり、描かれているのは一人の人間に関する出来事にすぎないのに、始まりかけた世界がまた終わってしまったような、ぽっかりと穴の空いた喪失感を味わいました。
 

「機関車に巣喰う」龍胆寺雄(1930)★★★★★
 ――俺はピラミッド型に積んだコークスの山から、音を立てないようにバケツに入れて盗み込むのだ。俺等《おいら》の住まいを打ち開けようか。土手の腹に傾いで錆びついている機関車さ。瑁《まい》を連れて郷里を遁出してもう四年。十三の瑁が十七になった。機関車に来てからは、もう誰にも気兼ねはいらない。

 二人とも若く瑞々しいし、愛情の表現の仕方も不器用だけれど、生活力があるところに驚きます。身勝手で見通しのない若さだけの勢いは時に不愉快ですが、しっかりしたものを持っていればこんなにも気持のよいものなのかと感服しました。
 

「風琴と魚の町」林芙美子(1931)★★★★★
 ――父は風琴を鳴らして商売をしていた。「ええ――子宮、血の道には、このオイチニイの薬程効くものはありません」。私が風琴を肩に掛けると、子供達が「散剪り、散剪り、男おなごやァい!」と囃したてた。学校に行くと、「新馬鹿大将の娘じゃ」と呼ばれた。言葉が乱暴なので、よく先生に叱られた。

 アコーディオン弾きの薬売り親子や地元の子供たちの交流によって、下町の魅力がたっぷりと描かれています。おばさんが井戸に落ちたとき「おじさんが『うははははははうははははは』と、泡を食ったような声で呶鳴っていた」という表現や、「刀で剪りたくなる程、雨が毎日毎日続いた」という表現には、小手先では書けない貫禄がありました。
 

「地下室アントンの一夜」尾崎翠(1932)
 →『第七官界彷徨・琉璃玉の耳輪 他四篇』で既読。

「薔薇盗人」上林暁(1932)★★★☆☆
 ――校門際のたった一株の痩せた薔薇、たった一輪咲いた紅い薔薇が、盗まれてしまった。「先生、私が折りました。」と申し出るものは遂に現れなかった。薔薇の花は、仙一の妹の由美江の胸の上で萎びていた。父親の喜八がなまけ者であるという非難は一応当たっている。飯を食えない日も幾日もある。

 林芙美子作品に続いて、貧しい子どもの話です。盗んだ薔薇の花に性を匂わせたり、芝居の帰りに暗い夜道を母の墓に寄ったり、作品として小ぎれいにまとめようとしているためか、林作品ほど心に響きません。
 

「麦藁帽子」堀辰雄(1932)★★☆☆☆
 ――私は十五だった。そしてお前は十三だった。私は走る。足が滑る。私はどぶ鼠になる。私は井戸端に連れられてそこで素っ裸になる。お前の名が呼ばれる。素っ裸になることは、何んと物の見方を一変させるのだ! 小娘とばかり思っていたお前が、突然、一人前の娘となって私の眼前にあらわれる。不動の姿勢で私は突っ立っている。顔を真っ赤にして……。

 詠嘆調で「お前」に語りかける文体と、それでいながら「お前」に対する意識の他人事のような距離の取り方が、いずれも印象的な作品ですが、海外文学の模倣臭が強すぎて好きになれません。虚心に読めばよい作品なのですが。
 

「詩人」大佛次郎(1933)★★☆☆☆
 ――馬車はヴォスクレセンスカヤ広場へ入って来る。カリャアエフの持場であった。毛布にくるんだ爆弾をさげたまま、真直に出て行って馬車を迎えた。爆弾を持った手をあげた刹那に、大公の姿が見えた。同志の者が今か今かと待ち構えていた爆音は遂に聞こえて来なかった。不発だったのか? いや、そうでない。「已むを得なかったと思います。子供たちを……誰が殺せますか?」

 殺す相手が誰であれ暗殺はただの人殺しであり、大公夫人の行為は単なる貴族の心がけである。ただそれだけのことに、感傷的で人情的な意味を見出してしまう「詩人」の暗殺者が非常に気持ち悪かったです。こういう自己完結的で自己満足的な人だからこそ、暗殺という手段に訴えるのだろうなあ、とは思いますが。
 

「訓練されたる人情」広津和郎(1933)★★★☆☆
 ――玉千代がこの土地に出るようになったのは、鈴源の女将が目をつけたのが始まりだった。間もなく妹の三升家の玉吉のお抱えになった。物覚えの好い妓で、姐さんの小唄を直ぐ真似たし、踊もこなして行ったし、活惚《かっぽれ》をやれと云われればやってのけた。欠点と言えば、すぐにお客に惚れて妊娠してしまうことだった。

 身勝手で考えなしの女が、三十も間近でようやく感じた人並みの感情に、ほろりとするというよりいらいらしました。駄目男の逆で、駄目女、ですね。現代とは時代が違うのか、わたしたちとは住んでいる世界が違うのか、それはわかりませんがとにかく時間の流れ方が今とはまったく違っていて、理想化された花柳界の、おかみさん気質にほのぼのします。
 

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