「82黒髪の長きやみぢも明けぬらむおきまよふ霜のきゆる朝日に」~「93 あかつきはかげよわりゆく燈火に長きおもひぞ一人きえせぬ」塚本邦雄『定家百首/雪月花(抄)』より

 82・83いずれも遊び心のある歌(いにしえの歌人を読み込んだ歌と、各歌の頭をつなげて言葉にする歌)です。「ありつつも君をば待たむうち靡くわが黒髪に霜の置くまで」を本歌にした82の歌については、「おきまよふ」の一語にのみ反応しています。「83 昨日までかをりし花に雨すぎてけさはあらしの玉ゆらのいろ」については、「花散るころの春嵐は、烈しい風雨が一薙ぎするとたちまち緑一色の初夏になる」場面を詠った歌とのよし。
 

「84 はまゆふや重なる山の幾重ともいさしら雲のそこのおもかげ」の歌について、「花、山、雲のうちかさなる中におぼろに人の眉目が浮び上つてくる」としたうえで、この「面影」を西行にまで求めていました。
 

「85 桃の花ながるる色をしるべとて浪にしたがふはるのさかづき」
 

「86 きぎす鳴くかた野のましば宿かりてかすみに馴るる春の夕暮」は、桜狩りで「交野のはずれの雑木林の一隅に宿泊」した際の歌で、「花が無いのでことさらに霞は霞そのものになり、狩を離れての旅のやうにも見える」とし、父俊成の歌を引き合いに出したうえで、「定家の華やかさを殺した作品の方がよほど鄙びたかなしみを傳へてゐよう」とあります。
 

「87鳥はくも花はしたがふ色つきてかぜさへいぬる春のくれがた」。塚本の鑑賞文中には特に注記はありませんが、『和漢朗詠集』に「春を留むるに関城の固めを用ゐず 花は落ちて風に随ひ鳥は雲に入る(春が過ぎるのを止めようとして門を固めたりはしない 花は落ちて風に従い鳥は雲のなかに飛んでいってしまうのだ)」なる詩があるようです。
 

「88 あくがれぬ花たちばなのにほひ故月にもあらぬうたた寢の空」。「古今集伊勢物語以來、橘の花の香はかつて愛した人の袖の薫香であるといふ作歌上の約束が」あるそうなのですが、それにしても「月にもあらぬ」がわかりづらい。
 

「89 うたがひし心のあきの風たたばほたるとびかふ空に告げこせ」。85からの「一句百首」は即興歌だそうです。塚本は上の句を「疑惑が解けたならば」と解釈しています。
 

「90 移り香の身にしむばかりちぎるとてあふぎの風のゆくへ尋ねむ」。塚本は定家の戀歌の代表作として、本書の2「あぢきなく」・16「年も經ぬ」・77「かきやりし」と、この90「移り香の」を挙げています。「勿論王朝の人の香はすべて熏物によつて生れることを前提とし、なまなましいにほひは淨化されてゐるが、汗のにほひをもこめて味はふのが現代人の鑑賞法であらねばなるまい」と言い切っています。正確に言えば恐らくこれは誤読なのでしょうが、「なるまい」と断言しているように、塚本にとってはこうした攻めの鑑賞こそが正しい読み方なのでしょう。
 

「91 いたづらに春日すくなき一年のたがいつはりに暮るる菅の根」
 

「92 空蝉のゆふべの聲はそめかねつまだ青葉なる木木のしたかげ」

 良經の「秋近きけしきの森に鳴く蝉の涙の露や下葉染むらむ」にあるような、「紅葉するのは蝉の血の涙のせゐ」という解を、塚本は否定します。
 

「93 あかつきはかげよわりゆく燈火に長きおもひぞ一人きえせぬ」

 日影月影の「影」という表現について、「この歌などでははたと膝をうつやうな味を傳へる。光が弱るのではない。光が光に殺されて影がうまれるのであるが、」と評しています。

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