『J・G・バラード短編全集1 時の声』柳下毅一郎監修(東京創元社)★★★★☆

 アメリカで刊行された短篇全集の邦訳版らしいです。「プリマ・ベラドンナ」「時間都市」「スターズのアトリエ5号」は創元SF文庫『時間都市』(→感想)の宇野利泰訳で読んでいました。
 

「序文」J・G・バラード

「序文」マーティン・エイミス

「プリマ・ベラドンナ浅倉久志(Prima Belladonna,1956)★★★★☆
 ――歌姫のジェインが歌う草花《コーロ・フローラ》店を訪れると、最大二十四オクターヴの音域を持つアラクニッド蘭が歌い始めた。

 記念すべきデビュー作。一見するとミスマッチとも思えるような、歌う花という幻想的なイメージと西部劇のような自立した登場人物の相性がいいことに驚きます。
 

エスケープメント」山田和子(Escapement,1956)★★★☆☆
 ――僕とヘレンがテレビの前でクロスワードと繕い物をしていたとき、テレビの芝居が同じシーンを繰り返したことに気づいた。それが何度も繰り返される。

 同じ時間が何度もループするという発想に、その間隔が徐々に狭まってくるというサスペンスが盛り込まれることで、いま読んでも古くささを感じさせません。
 

「集中都市」中村融(The Concentration City(初出タイトルBuild-Up, New Worlds),1967)★★★☆☆
 ――Mは飛行する夢を見た。実現させるためには広く自由な空間が必要だった。だが土地の値段は高く、都市ではつねに再開発が続けられていた。はたして都市に果てはあるのか――。

 何らかの事情により文明崩壊後に再開発された管理都市らしき場所を舞台に、空を飛ぶという人類のロマンを語った作品で、空間を時間の譬喩で説明する登場人物の理屈がユニークで面白いうえに、実際にうねりゆがむ旅を主人公が経験するところにもロマンがありました。
 

「ヴィーナスはほほえむ」浅倉久志(Vinus Smiles(初出タイトルMobile),1957)★★★★☆
 ――ヴァーミリオン・サンズの中心にある広場のために造られた音響彫刻は、お披露目式の場で不快な音を立てて撤去されると、音を鳴らしたまま植物のように大きく成長していった。

 彫刻製作者のロレイン・ドレクセルが憎めない悪党という感じで、最初から最後まで手玉に取られている語り手とヴァーミリオン・サンズの住人たちには、思わず笑ってしまいながらも同情を禁じ得ません。
 

「マンホール69」増田まもる(Manhole 69,1957)★★☆☆☆
 ――外科手術により睡眠が不要になる実験に参加した被験者たち。擬似的な死である眠りが取り除かれれば、精神をもっとまともなものに方向づけられると考えたが……。

 効果的な結果ばかりかと思われた新技術に、副作用があったという、わりとありがちな内容でした。
 

「トラック12」山田和子(Track 12,1958)★★★☆☆
 ――シェリンガムはさまざまな音を録音して、マクステッドにクイズを出していた。「これは何の音かな?」今宵の本当の主題であるはずのスーザンのことはまだひとことも口にされていない。

 嫉妬の表し方がものすごくねちっこく、明らかに完全な変態なのですが、突き抜けすぎているせいで気持ち悪さよりもコントのキャラみたいな馴染み感を感じました。
 

「待ち受ける場所」柳下毅一郎(The Waiting Grounds,1959)★★★★☆
 ――タリスは何もない惑星ムーラク天文台で任期2年の仕事を15年務めてきた。後任のクウェインは、タリスが何かを待っていたのではないかと考えた。消息を絶った地質学者がまだ生きていると考えているのか――? その地質学者が大量の聖書を仕入れていたと知り、さらに疑惑は深まった。

 宇宙人による高度な古代文明という『ムー』あたりでお馴染みの系譜に連なるオカルトですが、場所は宇宙のフロンティア、現れたのはバラードらしい内面世界の話です。
 

「最後の秒読み」中村融(Now: Zero,1959)★★★★☆
 ――どういう経緯でわたしがこの途方もない力を見つけたのか、おわかりだろうか。わたしはランキンという上司のせいで昇進できずにいた。毎晩帰宅するとランキンの悪行を物語の形式で書き連ねるようになり、最後には階段から落として殺すことにした。

 漫画『デスノート』とフレドリック・ブラウンのあの作品を足したような内容です。同タイプとはいえ、個人的な恨みを経てその後、最後にはきちんと「読者」に広げている分、比べるならこちらの方が出来がよいと思います。
 

「音響清掃」吉田誠一訳(The Sound-Sweep,1960)★★★★☆
 ――建物を破壊する恐れのある音響のかすを掃除する市の音響清掃係であるマンゴンは、超音波音楽の台頭により落ちぶれたプリマドンナのマダム・ジョコンダの許で働いていた。唖者のマンゴンは、復活を夢見るジョコンダを崇拝していた。

 音響清掃と超音波音楽という何だかよくわからないものが存在する世界を背景にした、『サンセット大通り』にふさわしく、バラードには珍しく(?)、世俗を生きる人間の人間くさい感情が露わに描かれていました。
 

「恐怖地帯」増田まもる(Zone of Terror,1960)★★★☆☆
 ――巨大脳シミュレーターの回路のプログラミングに不眠不休で取り組んだせいで神経衰弱に瀕していたラーセンは、二、三か月の保養を取った。だが保養先でラーセンが目にしたのは、胴体の透けた男の姿だった。

 脳神経的に解釈されたドッペルゲンガー譚ですが、最後に第三者の目にも見えるようになってしまったのは、やりすぎで興醒めでした。
 

「時間都市」山田和子(Chronopolis,1960)★★★☆☆
 ――ニューマンの公判が始まろうとしていた……時計が禁じられている世界で偶然から時計を手に入れたコンラッド少年は、ひそかに授業の時間を計っているところを教師のステイシーに見つかってしまった。

 時間に縛られた社会というと現代社会の諷刺を連想しますが、現代どころかさらに一歩先を行った未来が舞台です。オチは時計つながりではありますが、テーマとは直接的な関係がありませんでした。
 

「時の声」伊藤典夫(The Voices of Time,1960)★★★★★
 ――自殺したホイットビイはプールの底に奇怪な溝を残していた。神経科医のパワーズは、そのことが忘れられない。パワーズは突然変異したさまざまな動植物を収集していた。あるヒマワリは時を見る。周囲のものが年をへているほど、その新陳代謝は緩慢になるのだった。

 時を見る植物、沈黙の体、「リボ核酸の鋳型が摩滅しかけ、原形質に署名を書きこむインクが薄くなってきた」といった退化論、それに基づく不眠手術、天文台のカードに書かれた謎めいた数字、等々、それ自体が魅力的なガジェットにあふれています。
 

ゴダードの最後の世界」山田順子(The Last World of Mr. Goddard,1960)★★★☆☆
 ――デパート一階フロア主任のゴダードは、家に帰ると金庫を開けて書類箱を取り出した。書類箱の中は精巧に造られたこの街のミニチュアだった。

 作り物と現実がリンクするというよくある設定ながら、途中に不条理小説のような展開が用意されているところにアクセントがありました。
 

「スターズのスタジオ5号」浅倉久志(Studio 5, The Stars,1961)★★★★☆
 ――オーロラ・デイとは何者だったのか。機械で詩を作るのが当たり前になった時代に、人間の手で詩を作ろうとしていた。わたしの編纂する雑誌に自作の詩を送りつけ、没になっても諦めなかった。

 ヴァーミリオン・サンズもの。こうしてまとめて読んでみると、超音波音楽とか時間都市とか人工詩とか、アイデア自体は陳腐なのに、ロマンがあって、こういうところがほかのファンタジーとは頭一つ抜けています。
 

「深淵」中村融(Deep End,1961)★★★☆☆
 ――熱前線が引いて晩になると、ホリデイは町に行った。若い連中は入植地からいなくなってしまった。地球に残っているのはいずれホリデイぐらいのものになるだろう。

 ほかの人にはわからない象徴を何かを求めて叶わず落胆するというのはいかにも文学的なテーマでした。
 

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