『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊』東雅夫編/金井田英津子絵(汐文社)
「あれ」星新一(1975)★★★★☆
――あるホテルの一室で、出張中の男が眠っていた。静かな真夜中。男はふと寒気を感じて目をさました。そばに人のけはいを感じる。一メートルほどはなれて、なにものかが立っている。やがて消えた。本社へ戻った男は、同僚と酒を飲んだ時そのことを話題にした。ただの悪夢とは思えず、ついだれとはなしにしゃべってしまう。そのうち、男は専務に呼ばれた。
登場人物の一人が「霊魂かな」とは言っていますが、著者自身は霊とも何とも断定していません。オカルト的にはホテルの部屋に出るものは心霊現象と相場が決まっているのでしょうが、飽くまで「あれ」としか呼びようのない存在で、実際引き起こされる現象は幽霊というより座敷童に近いものでした。
「霊魂」倉橋由美子(1970)★★★☆☆
――死病の床に就いているMが、婚約者のKに「わたしが死んだら霊魂がおそばにまいりますわ」といった。Kのところに霊魂がやってきたのは、葬儀が終わった翌日の夜のことだった。「お待たせしましたわ」という声がして、霊魂が膝にあがってきた。それは半透明の塊で、二、三歳の子どもほどの大きさだった。その日からKはMの霊魂と同棲しはじめた。
一種の異類婚姻譚ということになるのでしょうか、Mの霊魂といいながら、Mらしさは最初から皆無で、遊びに来た屈託のない女の子のようです。オカルト的な幽霊とも仏教的な死者の霊とも違う、不思議な魅力がありました。
「木曾の旅人」岡本綺堂(1913,1921)★★★☆☆
――重兵衛という男が、そのころ六つの太吉という男の児と二人きりで、木曾の山奥の杣小屋に暮していました。「怖いよ。お父さん」少年を恐れさせた唄うような悲しい声は旅人のものだった。木曾の山中に行きくれて、焚火の煙を望んで尋ねてきたのであろう。旅人が来てから半時間ほど経っても太吉は怯えたまま隅に小さくなっていた。そのうち猟師の弥七が訪ねて来たが、弥七の飼っている黒犬が旅人に吠えかかった。
この作品と次の「後の日の童子」は、同じ編者の『日本怪奇小説傑作集』にも収録されているので何だか損した気分です。もしや旅人の正体は怪物《えてもの》なのではないか――という恐怖が、また別の現実的な恐怖に変わり、それがまた最終的に幽霊か何かが存在するのではないかという恐怖に変わるという、贅沢な一篇です。
「後の日の童子」室生犀星(1923)★★★☆☆
――夕方になると、一人の童子が門の前に立っていた。いつも紅い塗のある笛を携えていた。「きょうは大層おそかったではないか。犬にでも会ったのか。」「いいえ、お父さん。ねえお母様。」「なあに。」「僕にそのあかん坊をちょいと見せてください。」童子は赤ン坊を覗きこんだ。「おまえによく似ていると思わないかい。」「少しも似ていない。僕のような顔はどこにもない、似てやしません」
死者との距離感が独特で、親子の会話からは『蜜のあはれ』の金魚と老作家を彷彿とさせます。童子というのが幽霊というよりは妄想に近い、けれど両親にとっては確かに実在する、という曰く言いがたい存在のように感じました。ゴースト・ストーリーですらないかもしれないジェントルなストーリーでありながら、死者の足許に虫が湧くというところだけが妙に生々しかったです。
「ノツゴ」水木しげる(1983)★★★☆☆
――妖怪作家のH氏は夫婦の激論で苦戦すると話題を“未知の力”にむける。「心を残して死んだ者は次世代の心にひっかかり、新形式の“生存”をつづける。つまり作家がシゲキをうけて書き、読者の頭に残るのだ」。それから十日ばかりになる。夢で見たのと同じ景色がテレビに出てきた。「なんで四国の山を夢にみるのだろう」。H氏は四国に行って地元のカジ屋にたずねた。「このへんに人にとりつくお化けはいませんか」「ノツゴですたい」
氏の漫画とまったく変わりない暢気な文章です。書けない言い訳を未知の力のせいにして、奥さんもそれに協力してお祈りをはじめるというのがすっとぼけていて、ユーモアは一級品です。一方で、ふつう怪談というものは怪異が起こる手続きを踏むものですが、視える人や信じてる人はそれが当たり前のように書くので、一般人は置いてけぼりを喰らいます。だからクライマックスの恐怖も、出来すぎの暗合のようにしか感じられませんでした。
「お菊」三浦哲郎(1981)★★★☆☆
――「八号車は県立病院へまわってください」「了解」。六蔵は車を出した。女は右側のドアが開くのを待つふうで、タクシーとはあまり馴染みのない客だとわかりました。「車を頼んだお客さんですね?」「はい。里村リエです」高校生ぐらいに見えます。「鷹の巣まで」。五十キロ先で二時間はかかります。「患者さん?」「はい……家へ帰ります」「外泊のお許しが出たんですか、そいつはよかった」一時間ほど走ると、女が声をあげました。「菊が……」なるほど菊ざかりです。「菊が好き?」「はい、大好き」
ストーリー自体は陳腐です。よくあるタクシー怪談でしかありません。けれどタクシーに乗り慣れない描写や、少女がひさしぶりの外の景色を見たときの反応など、確かに「生きた人間以外のなにかだったとは、どうしても思えない」ような、血の通ったリアリティに裏打ちされています。お菊という幽霊としては由緒正しい名前を、一面の菊畑と結びつけた発想に意外性がありました。
「黄泉から」久生十蘭(1946)★★★★★
――終戦後、仲買人となって八年ぶりに日本に帰ってきた光太郎が、恩師のルダンさんとばったり出会った。ばつが悪い思いをしながら「どなたの墓まいりですか」とたずねると、「この戦争でわたしの弟子が大勢戦死をしたぐらい察したまえ。みんなの霊と大宴会をやるんだ」「おけいも呼ばれているのですか」「ひどいことをいうね。八年の間、手紙も書かずにいて」
もう読むのは何度目かになる名作です。ラストシーンのインパクトが絶大な作品ですが、おけいの南方での様子もただの思い出話ではなく作品にとって不可欠な要素でした。南方の雪のエピソードは、作法や真贋ではなく思いやる気持という点で、まさに光太郎が現在おこなおうとしていた独自の供養と重なります。そのエピソードを伝えに来たのがおけいの友人でなければ、当然ながら作品自体が成立しません。そしておけいが南方で話していたのが謡曲「松虫」だったという事実によって、霊の導きなのではないかという想像が補強されていました。
「幻妖チャレンジ!」
「謡曲「松蟲」」
――これは津の國阿倍野の市に出でて酒を賣る者にて候。さても此の程いづくとも知らぬ男、酒を買ひ飲み候が、更に歸るさを知らず候。今日も來りて候はば、如何なる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。
かつて松虫の声に誘われて草むらに入ったまま頓死してしまった友人を偲んで、今も松虫の声に惹かれて霊となって現れる男を描いた作品で、久生十蘭「黄泉から」のサブテキストとなっています。
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