「尼」ヴィーズ("Kyddet",Gustav Wied,1890)★★★☆☆
――ブレドガアデからの帰道。兄とおれである。歩いていると、尼が二人向うから来た。年上の方は太っていて、若い方は天使のような顔をしている。「あ。いつかの二人だった。」おれはこう云って兄の臂《ひじ》を掴んだ。いつか日なたぼっこをしているときに見かけて、「どうしてもあれにキスをせずには置くまいと、心に誓いました。ああした口はキスをするための口で、祈祷をするための口ではないのですから。」
デンマークの作家。現在ではウィードという表記が一般的のようです。短篇集『Lystige Historier』(1896)所収。初出題「Nonnen(尼)」。タイトルの「Kyddet」とは、「肉(Kødet)は弱い」という兄の言葉に対する「肉がですか(Nå "Kyddet!")」という弟の発言によるもの。「Kysset(キス)」とも掛けているのでしょうか。「肉体(肉欲?)は弱い」という兄に対し、「欲望の起った時は、実際それを満足させるより外には策はありません」という持論を持つ弟が、強引にキスを迫って悪びれないという変態小説。人間と猩々との合いの子が云々という描写もあることですし、どうやら理論が先に立つ頭でっかちな人間のようです。
「薔薇」ヴィーズ(Roser,Gustav Wied,1906)★★☆☆☆
――お嬢さんは薔薇の枝を婆あさんに渡した。「これをねえ、わたしの体へ振り蒔いておくれ。幌の上にもね。」お嬢さんは車に乗って出かけていった。お婆あさんは食卓に薔薇の花を並べてお嬢さんの帰宅を待っていた。「ふん。そんなに甘やかしてどうするのだ。」と主人は言った。お嬢さんと家来のウィクトルと二人で自動車に乗って帰ってくる。
短篇集『Circus mundi』(1909)所収。無邪気な幸せと、突然の悲劇。人生の一瞬を切り取ったエピソードとして秀逸ですが、ただのエピソードで留まっているのは否めません。
「クサンチス」サマン(Xanthis,Albert Samain,1902?)★★☆☆☆
――クサンチスは飾箱の中の美しい人形である。公爵の人形と交際していたが、やがて音楽家の青年人形が現れると、音楽家と親しくなった。さらに……。
フランスの作家。浮気な人形の行き着く先。壊れておしまい、ではなくその先があるのが余計なのですが、いま読むとその余計な部分が印象に残る。余計だけど。
「橋の下」ブウテ(Sous le pont,Frédéric Boutet,?)★★★★☆
――一本腕は橋の下に来て雪を振り落した。ふと見ると痩せ衰えた爺いさんがいた。パンと腸詰とをじっと見ているが、一本腕は何一つやろうとしなかった。「いろんな事をやってみたが、ひどい奴等だよ、金持と云う奴等は。」「なぜぬすっとをしない。」と爺いさんが云った。「口で言うのは造做《ぞうさ》はないや。」。爺いさんは囁いた「おれは盗んだのだ。ミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならぬ」
貧乏人同士、生きるか死ぬかの瀬戸際で、お宝を持っているのに現金化できずに野垂れ死ぬのを選ぶ老爺というのはあまりにできすぎで、嘘くさいと呟く一本腕の言葉もあながち捨て台詞とも断定できません。こういう物語らしいドラマのある物語は貴重です。
「田舎」プレヴォー(Provinciale,Marcel Prévost,1912?)★★☆☆☆
――三十六歳の脚本作者ピエエル・オオビュルナンは郵便を選り分けた。マドレエヌ・スウルヂェエからだ。イソダンで識っていた時は未亡人でいた美人である。その時のピエエルは高等学校を卒業したてだった。夫の不貞の手紙を見つけ、パリイで頼りになる唯一の人間に相談を求めてきたのだ。今でも変わらぬ見た目なのだろうか。ピエエルは頼み通りマドレエヌに会いに行ったが、なぜか追い返されてしまった。
女心と男心の駆け引きと心理の綾がこってりと描かれています。むかしの人は時間にも心にも余裕があったんですよね。アラフォーにもなってこんな高校生みたいな頭でっかちな恋愛ができるんですから。
「復讐」レニエ(La Courte vie de Balthazar Aldramin, Vénitien,Henri de Régnier,1909?)★★★☆☆
――老バルヂビエロは甥のバルタザルに手紙を……おれが御身に暗室の女を襲わせたのは、女に立場をわからせるためと、女が若い甥に身を委せたと知ったら、おれの恋も褪めるだろうと思ったためだ。女はいまおれと同様に御身を憎んでいる。女は毎晩おれに葡萄酒を薦める。毒が調合してあることをおれは楽しんで口に銜む。おれの命にはもう価値がない。だが御身はまだ若い。警告せずにおられない。
頽廃と滅びの漂う、耽美な復讐譚です。好き勝手なことをして満足と諦観を覚えて死んでゆく老人はともかく、バルタザルも善人でないとはいえ残された方はいい迷惑です。命を狙われていると知ったバルタザルが怯えるのではなく、命について哲学的な考察を始めるところは、当時の小説の癖みたいなものなのでしょうが、バルタザルの悪びれなさのようにも受け取れました。
語りがちょっと変わっていて、初めは故バルタザルの友人ロレンツォがバルタザルの死の顛末をこれからお話しします――という宣言があり、これは現在から見た過去の回想です。次にその過去の話の内容がバルタザルの一人称に直して語られ、その告白のなかにバルヂビエロからの手紙が挿入され、バルタザルが刺されたのを自覚したところでバルタザルの一人称は終わります。そこでふたたびロレンツォの一人称に戻りますが今度は現在から見た回想ではなく過去の時点での現在形で語られます。文体が一緒なうえに全部「おれ」なので混乱しました。
「不可説」レニエ(L'Inexplicable,Henri de Régnier,1907)★★☆☆☆
――愛する友よ。この手紙が君の手に届いた時には、僕はもうこの世にいないだろう。名はジュリエットと云う、美しい、若い女に、僕は惚れているのだ。旅行の記念品を買いに行った先で、武器を売る男が刃を抜き出しながら、微笑んで僕の顔を見た。深紅色の氈は、そこで買ったのだ。氈の上に寝てジュリエットの裸体を抱いた時、あの上でこの世を去ろうと云う、不可説にして必然な心が養成せられた。
これも退廃的で耽美な作品で、こういう死に対する憧れみたいな作風は昔の作品にはよくあるのですが、こういう観念的な内省は波長が合わないと響きません。
「猿」クラルティ(原題不明,Jules Claretie,?)★★★☆☆
――M提督が話してくれた。ある日金剛石を嵌めた指輪が紛失した。戸口にいたのを人に見られた一人の水兵が嫌疑者にせられた。水兵は猿の腕首を掴んで指輪のあった所へ連れて行こうとした。ところが近くなればなるほど、猿が震え出した。
やたらとマクラが長いわりには、猿が宝石を盗んだというだけの話です。縁起を担ぐ船乗りにしては猿を殺してしまいますが、縁起よりも窃盗犯への規則を優先させたたということなのでしょう。殺しておきながら「物悲しくなった」とは自分勝手にもほどがありますが、そこまで含めてユーモアのあるお猿さんの話のようです。
「一疋の犬が二疋になる話」ベルジェエ(Monsieur Bonichon mène perdre son chien,Marcel Berger,?)★★★☆☆
――ボニション先生は家まで帰って来たが、まだ門には這入ろうとしない。犬のリップが骨を見附けて引き摩っているからである。家主のかみさんにはまだ見付かっていない。だが御新造にはとうとう「売っておしまいなさい」と言われてしまった。先生は帽をかぶって出掛けた。
著者については一切不明ですが、収録順から見てフランスかベルギーの作家だと思われます。タイトルでネタバレしている通り、犬を捨てに行った旦那さんが捨てるに忍びなく、それどころかもう一匹拾ってくる話です。こういうユーモラスでちょっといい話も含まれているところに、鴎外の懐の深さを感じます。
「聖ニコラウスの夜」ルモニエ(La Saint Nicolas du batelier,Camille Lemonnier,1887)★★★★☆
――リイケが蒼くなって目を瞑った。もう産まれるらしい。ドルフはプッゼル婆あさんを呼びに走った。波止場まで来ると大勢の人がいて、叫んだものがある。「ドルフ。一人沈みそうになっているのだ。おまえでなくては出来ない」。一度は断ったドルフだったが、説得されて「よし、おれがはいる。代わりに誰か産婆を呼んでくれ」。溺れる者が足にしがみつく。やっとのことで浮かび上がったその顔を見て……。
ベルジェエ作品のユーモアとペーソスから一転、非常にドラマ性の高い作品で、原題からするとドルフ自身が聖ニコラウスになぞらえられているようです。鴎外のあとがきによると原文をかなり切りつづめたそうですが、この翻訳を読んだかぎりそれは成功しています。本当はもっと間延びした作品なのでしょうね。妻と赤ん坊の命と、自分だけしか助けられない他人の命との間に板挟みされたジレンマ。生きるか死ぬかのサスペンス。私怨と人類愛のせめぎ合い。
「防火栓」ヒルシュフェルト(Das Große Vergnügen,Georg Hirschfeld,?)★★★☆☆
――たびたび噂のあった曲馬師の旅興行が定興行になると聞いて、市中の人民は次第に興奮して来た。どれもこれも見たい。昼興行が終わると、外に出ようとする者と中に入ろうとする者とで身動きが取れなくなった。「親方。防火栓をお抜かせなさい」と、道化師の声が聞こえた。
これまたユーモアに戻ります。行き当たりばったりな行動の結果、現実が待ち受けていたという掌篇で、転んでもただでは起きないところにニヤニヤさせられました。
「おれの葬い」エーヴァース(Mein Begräbnis,Hanns Heinz Ewers,1901?)★★★☆☆
――おれは死ぬる三日前に「赤印自転車会社」へ葉書を出した。おれは是非「立派な死骸」として葬って貰わなくてはならない。冢穴《あな》はもう掘ってある。頭取が祭文を読み上げた。側で別れの歌を歌うのが聞えて来た。歌が終わると牧師の演説が始まり、中々止まない。頭取が構わず歌い出すと、巡査がやって来て「認可を受けているのか」と談じ付けた。
現在ではエーヴェルス表記が一般的で、上巻収録作家のなかでは、ポー、リルケ、シュニッツラーに次ぐであろう知名度を持つ作家です。カフカを読んでいるようなシュールなブラックユーモアだと思われましたが、不条理なのではなくどうやら語り手は意図してジョークでやっているようです。
「刺絡」シュトローブル(Das Aderlaßmännchen,Karl Hans Strobl,1907)★★★★☆
――医学博士のオイゼビウス先生が、新仏の墓を掘り返していた。解剖学のためである。と、男が先生のじき側に立っている。「この死体はあなたに譲ってあげましょう。ところで先生、手伝ってあげた報酬に、尼寺の刺絡を先生の代わりにわたしにさせてくださらんか」男は先生そっくりに変身した。
『書物の王国12 吸血鬼』(→)や『文豪怪談傑作選 森鴎外』(→)にも収録されています。アダムとエヴァが見守る尼寺での殺戮には美しささえ覚えます。
「アンドレアス・タアマイエルが遺書」シュニッツラー(Andreas Thameyers letzter Brief,Arthur Schnitzler,1900)★★★☆☆
――世間にては何と申し候とも、妻が貞操を守り居たりしことは小生の確信するところに有之、小生は死をもって之を証明する考えに候。子は我が嫡出の子なる故に候。その子の皮膚の色のいかにも異様なるは十分説明すべき理由あることに候。
妻が黒人の子を産んだ男の絶唱。信じたくないものを信じないために理屈をこねたところで現実からは逃れられません。情けない男の悪あがきが可笑しいやら哀しいやら。
「正体」フォルメラー(Die Geliebte,Karl Vollmöller,1911)★★☆☆☆
――「是非君に見せたいのですよ」と男は繰り返した。「最初に僕を魅したのは風景でした。それから山や水の線を発見したように、女の線や体が僕を占領しました。そして第三者が来たのです。それは極美です。絶対の曲線です」
これも『文豪怪談傑作選 森鴎外集』に収録されており、現在では垂野創一郎による新訳「恋人」も『怪奇骨董翻訳箱』で読むことができます。
「祭日」リルケ(Das Familienfest,Rainer Maria Rilke,1897)★★★☆☆
――スタニスラウスたちはミサから帰ってきた。兄の八周忌だった。「お父う様はどちらの椅子でお亡くなりましたの」とフリイデリイケが云った。「あちらの椅子でございました」おばさんは一族に関した出来事を精しく記憶している。ところが、それについて是非の論が紛起した。
親戚一同の取るに足らないやり取りと、ふとした瞬間に覚悟する死の予感。何気ない日常からひょっこり顔を出すのではっとさせられます。
「老人」リルケ(Greise,Rainer Maria Rilke,1897)★★★☆☆
――ペエテル・ニコラスは七十五になって、いろんな事を忘れてしまった。毎日菩提樹の下のベンチに腰を掛ける。席も極まっていて、貧院から来るペピイとクリストフとの二人の老人の間である。
老人の日常。何にも興味を持たずにただ生きているだけのように見えて、その実ちゃんと他人にも目を向けていたのだとわかってほっとした気持になれます。。
「駆落」リルケ(Die Flucht,Rainer Maria Rilke,1897)★★★☆☆
――二人は目を見合せた。アンナは溜息を衝いた。フリッツはそっと保護するように抱いた。「何もかも知られてしまいましたの。御一しょに逃げましょうね。わたくしあすの朝六時に停車場に参っています」アンナがおれに保護を頼むのだ。はじめこそ嬉しかった。だが夜が明けると厭になっていた。
老人に続いては若者の話です。その場の勢いで熱くなったかと思えば情けない本性をさらけ出すところが若者らしい。
「破落戸の昇天」モルナール(Az Altató mese,Molnár Ferenc,1908)★★★☆☆
――ツァウォツキイはえらい喧嘩坊で、詐欺もする、強盗もする。女房がまたパンの皮を晩食にするかと思うと気の毒でならないが、骨牌《かるた》で負けてしまい、絶望して小刀を胸に衝き挿した。すぐに地獄に行くのではない。まず浄火と云うもので浄められる。「娑婆で忘れてきたことがあるなら一日だけ帰れるぞ」「生まれる子供の顔を見たかったが、あとの祭だ」
戯曲『リリオム』のプロトタイプの短篇。愚かな男が過ちを何度も犯し続けるのとは対照的に、残された妻は賢しらにコメントするでもなくただただ我が子に愛情を注ぎます。最後の場面だけで母親の深い愛が伝わってきました。
「辻馬車」モルナール(原題不明,Molnár Ferenc,?)★★★★☆
――貴夫人「十年前のことでございますの。あのときわたくしあなたに八分通り迷っていました」。男「なぜ言って下さらなかったのです」。貴婦人「あなた『そんなら馬車に言って来ましょう』とおっしゃいました。あれがあなたの失錯の第一歩でございましたわ」。男「なぜですか」。貴婦人「女に冷却する時間をお与えなさるなんて」
駆け引きを駆使する女と、鈍感な男の好対照。これは永遠のテーマですね。騒がしくて声が聞こえないため無言にならざるを得ないような状況では、沈黙に意味を持たせることができないというのは確かにその通りで、そこに二頭立ての馬車なら……というユーモアを絡めたために本気なのか冗談なのかさらに煙に巻かれてしまいます。
「最終の午後」モルナール(原題不明,Molnár Ferenc,?)★★★☆☆
――男「実はお別れする前に伺っておきたい事があるのです」。女「ええ」。男「以前に『これが、わたくしの夫です』と見せられた写真はとても美しく、その日には夕食が咽に通らなかったのです」。女「そうだろうと存じましたの」。男「ところがあなたはお母あ様に出す手紙を、わたくしの部屋に落してお置きになった。手紙に書かれたオペラ座に往って見ますと、お母あ様と御夫婦で桟敷にいらっしゃった」
これも「辻馬車」と同じく女の駆け引きと男の鈍さが描かれています。「辻馬車」の男ほど鈍くはありませんが、所詮は女の掌の上でした。
「襟」ディモフ(原題不明,Осип Дымов,?)★★★★☆
――あの上等の襟のお蔭でおれは明日死ななくてはならない。ホテルを出ようとすると、門番がおれにうやうやしく包みを渡した。「なんだい」「昨日侯爵のお落しになった襟でございます」こいつまでおれを侯爵だと云っている。襟は丁寧に包んで紐で縛ってある。おれはそれを提げて電車に乗って、二分ほどして下りた。「旦那。お忘れ物が」車掌が云った。おれは聞えない振りをして、ずんずん歩いた。電車に乗っていた連中がおれを追い掛けに飛んで下りる。
いかにもロシア流のユーモア――と書こうとしたのですが、鴎外の分類ではオーストリアの作家になっていますね。呪いのアイテムを捨てようとしてもどうしても捨てられないという話は多々ありますが、この作品の場合はそんなご大層なものではなく、ただの襟だというのが可笑しみを誘います。
「うずしお」ポー(A Descent into the Maelström,Edgar Allan Poe,1841)
「病院横丁の殺人犯」(The Murders in the Rue Morgue,Edgar Allan Poe,1841)
「十三時」(The Devil in the Belfry,Edgar Allan Poe,1839)
ポーは読んだことのある作品ばかりなのでこの鴎外訳では読みませんでした。
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