『龍蜂集 澁澤龍彦泉鏡花セレクションI』泉鏡花/澁澤龍彦編/山尾悠子解説/小村雪岱装釘(国書刊行会)★★★☆☆

『龍蜂集 澁澤龍彦泉鏡花セレクションI』泉鏡花澁澤龍彦編/山尾悠子解説/小村雪岱装釘(国書刊行会

 泉鏡花の再評価前、全集も品切れだったころ、種村季弘澁澤龍彦による鏡花選集の企画が立ち上がったものの、企画は途中で立ち消えとなり、澁澤によって残されていた候補の第一稿を現実のものとしたのが本セレクションです。何しろリストしか残されていないので、なぜ澁澤がその作品を候補に選んだのかは、エッセイや対談などによって推測するしかありません。それを補完するのが山尾悠子の解説ということになるのでしょうか。
 

「山吹」(1923)★★★★☆
 ――画家に袖にされた夫人、人形使に向かって「何にも世の中に願はなし、何の望みも叶はなかつたから、お前さんの望を叶へて上げよう」。四十年前、若い女にひどいことをした人形使は、贖罪として同じように若く美しい夫人に打擲されることを望んだ。

 澁澤と三島が対談で意気投合することになった戯曲です。ただの痴話みたいな内容に、人形遣いという人ならざるものを使役する存在が関わってくることから、俄然怪しさが増してくる――のかと思いきや、人形遣いの方が“される”側という逆転ぶり。女は家のためという時代のなかで、自分の生に見出した意味が、人形使とともに行こうという覚悟は、いっそ神々しいほどです。
 

「星あかり」(1898)★★★☆☆
 ――ガタ/\動かして見たが、開きさうにもない。声を懸けて戸を敲けば造作はないのだけれども、墓原を夜中に徘徊するのを言争つて出たのだから、我慢にも恃むまい。一層海端へ行つて見よう。門外の道は鵲の橋を渡したやう。大浪に足を打たれて蹌踉けかゝつた。本堂の戸に飛着いたが、目が眩んで耳が聞こえなくなつた。が、うツかりした、疲れ果てた自分の身体は……

 墓場を散歩して締め出されるという、恐怖というよりお茶目な散策、ミニマムな冒険といった趣のある作品だと思いながら読んでいたのに、突如として明らかになるドッペルゲンガードッペルゲンガー自体はさして怖くないのですが、本当の怪異とはこういうものなのだろうと思わせる不意打ちの怖さがありました。
 

「清心庵」(1897)★★★★☆
 ――「千ちやん」「え」予は驚きて振返れば女居たり。摩耶の家に奉公する女なり。「御新造様があまでらにいらつしやつて帰らないものだから、密通だと思へば、千ちやんぢやないか。どうして一緒に居るのかね」「摩耶さんに聞くさ」「御新造様に聞きや、千ちやんにお聞き、とおつしやるんだもの」「皆尼様が御存じだから」「その尼様が分らないんだ」「母上さんは身を投げてお亡くなんなすつただろ」「ああ」「ありや、尼様が殺したんだ」

 これもまた唐突な終わりですが、それがかつて出会った前の世の光景ということは、ここは既にあの世であったということなのでしょうか。救いを求めて尼寺を頼ったというのに、「寒い」という人間くさい尼の言葉によって、仏道に入っても救われないと絶望する母親の心境を思うと、やりきれません。
 

「酸漿」(1910)★★★★☆
 ――赤十字病院へ朋輩の見舞に行つて、我が家へ帰つた時の小銀の顔色と云ふのはなかつた。内箱のお辻が心配すると、「咽頭へ酸漿が引つ掛つて……」「酸漿でございますか」「胸の悪い不気味な女房さんがね、病院下で、電車で隣に坐つたのさ……指の爪が真黒さ。べろんと剥げた額の生際が逆立つて、歯茎から涎が伝つて……カツと咳をして酸漿を吐出すんだわ。その度に唾が私に掛るんだわ」

 鏡花というと幻妖というイメージが強いのですが、これは凄惨という方が相応しい、生理的に受け入れがたいおぞましい作品でした。小銀の口から語られる、最下層の狂人の不潔さがとにかく気持ち悪いうえに、最後に小銀が酸漿を吐く(つもりで血を吐く)場面は、哀れというよりショックでした。内箱というのは芸者の付き人のこと、ゴム酸漿というのは本物の酸漿を笛のように鳴らす代わりにゴムを鳴らす玩具だそうです。
 

「春昼」「春昼後刻」(1906)★★★★★
 ――巡礼札を貼り散らした柱に、うたゝ寐に恋しき人を見てしより――玉脇みを――と書いたものがあつた。「あれがために一人殺したでござります」といふ出家の言葉に、聞くものは一驚を吃した。「この仮庵室へお宿した丁ど貴下のやうな方が、こがれ死をなすつたのです」「それほどのご婦人が」「大財産家の細君でござります――その客人が、堂の裏山で笛太鼓、囃子が聞へたと申します。ト向ふ山の腹へ引いてあつた幕が開いた。舞台へ上がつて凝と客人の方を見向いたのは、玉脇の御新姐で。そこに背後からづツと出たものがある。こちらを向いた顔を見ると客人御自分です」「ええ!」「その自分が御新姐の後姿に△を書いた。今度は□。三度目に○。はッと思ふと旧の土。夢中で駈け戻つて私に懺悔話。けれど数日後また其晩のやうな芝居が見たくなつたのでせう。死骸は海で見つかりました」

 山場がたくさんあり、鏡花作品のなかでもかなりのショッカーに類するものだと思います。美女が人を殺したという住職の突然の言葉、まるで化け物のように出現する馬、裏山に並んだ無数の石仏、サバトのような妖しげな舞台、たった一言で語られる客人や御新姐の死――切れ味と雰囲気の緩急が絶妙です。恐ろしい話でありながら、夢で一度きりの逢瀬を得て、海の底で再会するという、和歌に材を採ったロマンチックな面もあります。それでいながら連獅子の子を使いにして巻き込んでしまうのは、情け容赦のなさなのか、利己的で盲目で純粋な愛ゆえなのか。
 

「お留守さま」(1902)★★★☆☆
 ――友だちがくれた人形が一個、桐の箱に入つて居るのを、はじめは墨かと思つた。学生、生駒讃平。讃平は不図桐の箱の蓋の裏に「おるすさん」と記してあるのに心付いた。何者かが良人の留守を意匠として直ちに婦人の名としたものか。「乳母や、何処かこりや、深川の姉さんに肖てるやうだ」「本当ですねえ」「取りも直さん此の人のことだ。死んで居ないものを、彼の人は御亭主が留守のつもりで居る」「御亭主だなんて。あなたの従兄さまぢやありませんか」

 かなりマイナーな作品で、解説でもなぜ選ばれたのか推測されています。マイナーなうえに何も起こらず、讃平の視点に寄り添ってラストシーンの光景をあわれに感じるべき作品なのでしょうか。お留守さんというネーミングが秀逸です。
 

「蛇くひ」(1898)★★★☆☆
 ――仮に(応)といへる一種異様の乞食ありて、郷屋敷田圃を徘徊す。軒毎に食を求め、与へざれば敢て去らず。渠等は拒みたる店前に集り、餓ゑて食ふものの何なるかを見よ、と叫びて、袂より畝々と這出づる蛇を掴みて、引断りては舌鼓して咀嚼し、舐る態は、嘔吐を催し、心弱き婦女子は病を得ざるは寡なし。

 『文豪の怪談ジュニア・セレクション 獣』で既読。蛇食い芸をする乞食がエグくてぞっとします。十和田操「押入れの中の鏡花先生」に関連して、北村薫が蛇めしの出てくる作品として言及してもいました。
 

「X蟷螂鰒鉄道」(1896)★★★★☆
 ――山科の主婦は身体痩せたり。Xと題したる此小説の著者、畠山須賀子に、「お須賀さん、めツきり旨くなつたのね」「お恥かしい。学校ではあなたにお作文を直して戴いたんですものね」「いゝえ、結構。今は火鉢一ツ無い長屋で、こんな病身な甲斐性なしです。書が読めたつて、つぎはぎが出来ないぢやあ困るんですもの」「かうやつてお暮しではなるほど学問がお邪魔になるでせう」「邪魔になるたつて、此様でもありません」と主婦は傍の男の児を見向きたり。「御道理ですけども、学問のやうにお児様を邪魔になすつちや不可ません」

 随分とキワモノめいたタイトルですが、何のことはない「X《エッキス》」という題名の小説、蟷螂《かまきり》、鰒《ふぐ》、鉄道という、作中に登場する四つの要素を繋げただけでした。しいてこじつければ、Xとは落魄した山科品子とは対照的に成功した作家の象徴、蟷螂とはあやされる子どもの将来、鰒とは人生に悲観して死をも覚悟する品子の象徴、鉄道とはそんな鰒を切り裂き品子に仕事を与える存在――というのはさすがに牽強付会でしょうか。悲惨な話なのですが、我が子を新粉と呼んだり、父親が官憲を見て鰒を落として逃げ帰ったりと、可笑しな場面もあって悲惨さを感じさせません。
 

「裸蠟燭」(1900)★★★☆☆
 ――「消さんか、おい」巡査は平手を挙げて楫棒の尖に押立てゝあつた裸火の蠟燭を叩き払つた。「何故然ういふ悪戯をして歩くんだ。此の暗がりに、蠟燭が宙を燃えながら来るぢやアないか」「えゝ、疾く帰ります都合で提灯を持つて出ませんで、先の交番の旦那様が、お咎めになつて、暗がりに危いから、其処の荒もの屋で蠟燭を買つて灯して行けと」「向うの交番ぢや左様いつても此処ではいかん」

 澁澤が選んだ理由について解説で山尾氏も訝っていますが、家まで歩いて帰る途上の交番で、巡査によって蠟燭をつけろと言われたり蠟燭を消せと言われたりを繰り返すユーモア掌篇です。
 

「貝の穴に河童の居る事」(1931)
 

「鶯花径《あうくゎけい》」(1898)★★★★☆
 ――松は、あれは、――彼の山の上に見えるのは、確にあれは一本松。何時だつたか、其焼けたのは。誰かゞ乳のあたりへ顔をば抱寄せ、「可愛想にねえ」ツて頬ぺたから身体中の血を吸はうとする。いまわづかなあひだ、母様に抱かれたのと思つたけれど、違つた、矢張誰かゞつかまへて居た。待つてるものは男であつた。隣家の吉坊が殺されたのは、確に此処で――殺したのは気が違つた父上で――。

 記憶や意識が錯綜しているのか、それとも現実そのものが混濁しているのか、それすらもわからないような不思議な語りが続きます。人殺しや人攫いなど穏やかではないドラマチックな要素もありながら、結局のところはどこまでも母様の面影を追っているようです。
 

「紫陽花」(1896)★★★☆☆
 ――十歳ばかりの美少年の、「氷や、氷や」と呼びもて来つ。社の裏の木蔭より婦人二人出で来れり。貴女、此方に向ひて、「あの、少しばかり」。暑さと疲労とに、少年は纔かに頷き、氷の一角をば鋸もて切取る。その雪の色は真黒なりき。「この雪は、何うしたの」。美少年はものをも言はで、直ちに鋸の刃を返して削るに、其もまた黒かりき。鋸につきたる炭の粉の、其都度雪を汚しつ。「お母様に叱られら」。腰元は取做さんとすが、貴女はにべもなく「いいえ。さ、おくれよ。いゝのを」

 少年と年上の女性が登場しますが、母性というより、女性がいたいけな少年をからかっています。そしてまた少年も生真面目にそれに応えます。というか生活が懸かっているのだから生きた心地がしなかったことでしょう。美しい構図で幕を閉じるものの、少年としては災難です。。
 

「夜釣」(1910)★★★★☆
 ――大工、大勝棟梁のうちへ出入りをする、岩次と云ふのが居た。性来の釣好きであつた。中でも得意なのが鰻釣の糸捌だつた。が、女房は、まだ若いのに、後生願ひで、岩さんの殺生を気にして居た。霜月の末頃である。岩さんが、一夜あけて、昼に成つても帰らない。

 釣りという殺生を繰り返して来た男の身に起こった因果応報のようにも読めますが、明言はされていません。子どもがすべてわかっているふうの台詞を吐くのが不気味で恐ろしく、また、子どもの手では運べそうにない大きな石という何気ない描写がいっそうの不安をあおります。
 

「千鳥川」(1904)★★★☆☆
 ――「おかみさん。心中のあつた処ださうだね」「噓でございますよ。此のさきの千鳥川の川下では引立ちませんから、評判の立ち好いやうに、龍の鱗岩と拵へたのでせう」学生は身を乗出して、「見たか」。「見ましたとも。その日の晩方、私どもへ一寸休んだのでございますもの。何うぞ死骸は一所に葬つてくださいましと女の手で遺言がしてあつたさうですが、男の叔父御が憎い阿魔だと、引裂いてしまつたさうです。女の学校ともだちも恥だと申します」

 心中のあったことを縁起が悪いと忌むおかみや、心中したことを恥だと憎む親戚や学友や、好奇心で訪れて勝手に幻滅する野次馬に対し、酔っ払った学生の見せた怒りは如何にも学生らしい青臭いものです。ほとんどいちゃもんとも言えるようなそんな学生の言葉に対し、同じ店にいる令嬢が嫌がりもせず応対するのは、これはこれで一つの理想像のような気もします。
 

「笈摺草紙」(1898)★★★☆☆
 ――いま女達が踏んで居る土の中には、去年の秋土葬にした蓑岡の主人で、山下の寮の若旦那といつた美男子の、生々しい死骸が横たわつて居る。「はゝはゝ、死んだ人が幽霊になつて出てくれりや世話あねえ」とは若い者だ。山番の小屋まで来た。「親仁、久濶だ」「これは姉様達ようこそ」「旦那のお墓詣に来たんだよ」

 偶然の遭遇から思い返されるお嬢様の境遇。
 

「名媛記」(1900)★★★☆☆
 ――「私の故郷の、 亜米利加の大な竹藪には、尾の先に楽器を持つた蛇が棲んでるんですよ」恁う言つて話したのは宣教師の妹君で、学校の初級を預つた、りゝかという令嬢であつた。松崎といふ塾生にりゝかが気があるといふ評判だったが、蛇の物語を聞いて居る少年は、嘗て帰途に他の小児と喧嘩したのを、りゝかが立って、汝等の敵を愛せよ、貴方は忘れましたか、といつて涙ぐんだことを知つて居る。

 アラビアンナイトのような非現実的な物語に魅せられ、またリリカに対しても悪からぬ感情を持っていると思しき少年が、そのどちらも大事にした結果訪れるのは、ちょっとしたサイコ・ホラーめいた出来事でした。リリカはクリスチャンとして涙していますが、この少年は普通に人として怖いです。
 

「海異記」(1906)
 

「外科室」(1895)★★★☆☆
 ――予は画師たるを口実に、医学士高峰をしいて、貴船伯爵夫人の手術をば見たり。「私はね、心に一つ秘密がある。麻酔剤は譫言を謂ふと申すから、眠らずにお療治が出来ないやうなら、よして下さい」高峰、椅子を離れ、「看護婦、メスを」「えゝ」看護婦は猶予へり。「夫人、責任を負つて手術します」「何うぞ」血汐は胸よりつと流れて、白衣を染むるとゝもに、夫人の顔は蒼白くなりけるが、自若として動かざりき。

 結局バレてるんじゃないかと思うのですが、どのみちバレれば破滅しかなく、であれば思いを伝えたうえで死のうという強い意思によるものなのでしょう。九年前の一瞬のすれ違いだけの一目惚れゆえの、狂気のような愛情が強烈です。初読のときは麻酔なしの手術というホラー要素に怖気を震ったものですが、実際のところ思いが強すぎるとホラーでしかありません。
 

「紅玉」(1913)★★★★☆
 ――小児「やあ、停車場の方を見ろよ」。小児「大なものを背負つてるねえ」。小児「糸をつけて揚げる真似エしてやらう」。画工「何だ、面白い」。小児「凧が切れちやつた。あの唄を唄はう」。♪「青山、葉山、羽黒の権現さん」。画工(疲果てたる状、倒れる)。初の烏「寝たよ……だらしのない事」(酒を玉盞に酌ぎ、)「おゝ、綺麗だ。玉が溶けたと思ふ酒を飲んだら、どんな味がするだらうねえ」。(紳士登場、烏の袖を捉ふ)「地獄の門を背負つて、空を飛ぶ真似をするか」。初の烏「どうぞ、御免なさいまし」

 戯曲。一幕ものなのに三つくらいの場面が組み込まれた贅沢な作りです。最初の場面で、画額を背負う画工を凧揚げに見立てる微笑ましさに和んでいると、呪文のような唄によっていきなり異界に連れ込まれてしまいます。それが紳士の登場によってまた現実に連れ戻されるというどんでん返し。烏に盗まれた紅玉を拾った通りすがりの男から、取り返そうとしたのを浮気と疑われているらしいのですが……。紳士たちが去ったあと、今度は本物の烏たちによって、世界はまたもや非現実へと塗り替えられてしまいます。
 

「山中哲学」(1897)★★★☆☆
 ――技師は隧道《トンネル》まで来て引き返した。「あの隧道は危険だ。万に一ツも事なしには通られやしない」。茶店に戻ると旅客が七、八人居た。技師が引返して来たものとは思はず、自分達が行かうとする敦賀あたりから山越で此処に着いたものと思つたらしい。「婆さん、客はあつたか」「今しがた、按摩さんが発ちましたよ」「盲人が道中すりや頼もしい、さしたることもあるまいて」手代は駕籠に声をかけた。「御新姐様。参りませう」「今、盲人と言いひましたね、少し見合せませう」「新町の盲目に執心されてからといふもの、御新姐樣の盲人ぎらひにも困つたもんだ」。技師がうつむいてゐると、「三さん……私、信乃ですわ」御新姐が頭巾を取つて微笑んだ。「親御が大病でおいでなんです。あなたはお急ぎではないの」「私も急なんです」「では参りませう」

 各巻巻末には澁澤セレクトではなく解説者の山尾セレクトが収録されています。この作品は発表当時より世評が高くないそうですが、むべなるかな、何がどう転がるのかわからないのが鏡花作品の魅力の一つとするならば、この作品の場合はトンネルが危ないというだけで寄り道なしで前半が終わり、単調さは否めません。しかも短いならともかく長めの作品なので間延びしています。けれど間延びしているからこそ、山尾氏も認めるラストシーンの切れ味が冴えているとも言えます。

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