『某マイナス二号 矢野目源一 揺籃』(エディション・プヒプヒ)★★★☆☆

 プヒプヒさんのエディション・プヒプヒから、翻訳者として(たぶん)有名な矢野目源一の詩歌集が出ました。

 若き日の作品集ゆえか、以外と素直で普通の詩歌です。

 「春の山の霞かたはや麗人の衣かとぞ見る紫のふじ」「篁のうすしめりせる黒土に灯としも見ゆる藪柑子かな」という歌は色彩的に綺麗だし、「夏衣うす紅にうつろいて十六の人の絵傘さしゆく」のはっとするような若さも鮮烈です。

 けれど最初にこれはと思ったのはこの歌でした。「狭霧にし遠方見えずしろがねの月の光のたゞわれにさす」。わたしが短歌に求めているのはこういうものなんですよね。霧の月夜で自分の周り以外はぼうっとけぶっている――恐らくただそれだけの情景を、光が「われにさす」と表現することで、世界を「われ」と「われ以外」の二つに分けてしまうというか、世界に対して「われ」を特権的な存在にしてしまうというか、とにかく大きなスケールを感じます。これを読んだあとで「帝王の心となりて五月野を高きにのぼり国見するかも」の歌を読んでしまうと、帝王というのが単なる王様ではなく、宇宙の王とか森羅万象の王のようにすら思えてしまう(これはさすがに誤読でしょうけど)。

 スケールという点では「もしわれの息たへぬれば玻璃窓の函に屍おさめ海に沈めよ」も心に引っかかりました。音数からいって、「屍」と書いて「シ」と読ませるようです。素直に読めば「屍」とは「シカバネ」のことでしかないのでしょうけれど、「シ」と読むせいでどうしても「死」そのものを納めるかのように聞こえてしまうのです。

 「蘇訪色の夕べの空を東に烏は群れて飛びゆきにけり」の歌も、西じゃなくて東というのがドキッとします。これなどは夕べと聞くと反射的に朱色の西日を連想するだけで、案外夕方の東空は蘇芳色なのかもしれませんが。

 「暁のともしの色のうすれゆくふしどに聞きし雨の音かな」の歌に用いられた、空が明るくなるにつれて「灯が薄れる」と表現するレトリック。これが賢しらに感じられないのは、薄明の情景が、そのまま何とも言えない薄ぼんやりとした寂しさへと連なっているからだと思います。長い夜と夜明けの寂しさを詠んだ歌には、「秋の夜のうらさびしさのつれづれに長き文などかきすさび居ぬ」というのもありました。「秋の夜」「長き」とくれば、どうしたって「山鳥の尾のしだり尾の……」を連想してしまいます。取るに足らないように見えるこの歌の背景に人麻呂の歌を視ることで、字義以上の「さびしさ」「長さ」を感じてしまうのは穿ちすぎでしょうか。

 連作というのを意識されられたのが、「霊魂を認めぬものは息のなき土人形に劣りたる人」でした。この歌だけ見ればどうってことない。というよりひどい出来だと思います。けれどこの「草笛」と題された章が、友人の墓前で詠まれた歌から続く一連の作品で構成されていることを思えば、むしろこの生のままの怒り・叫びこそが説得力を持ってきます。ほかに、「この石碑なからましかばなかなかにうれひのかくも深きはなけむ」という歌は技法としては逆接を用いた定番中の定番ですが、やはりいいものはいい。

 「人知れず思ぞまさる美少女のごとくにふるや夜の雪」という歌も、意味がわからぬなりになぜか印象に残りました。しんしんと降っているの?猛吹雪なの?という現実的な考察など吹き飛ばす魅力があります。

 その他「紅茸は妖女に似たりその色はうるはしけれど毒ありといふ」「老人よなれのひたひのよこじわに時の逝けりし姿は見ゆれ」などもありきたりだけどちょっと気になりました。

 その他、詩のなかでは(恐らく恰好つけてるつもりの)結びがやっぱり恰好いい「雛祭」のほか、「断章」の五「見よ、見よ、/夜ふけの都のうへに/巨人ひとり、/ほほ笑みてあるを。」が好きな作品です。これはやはり三日月のことなのでしょうね。真っ暗闇の夜に、真っ黒な巨人の微笑んだ口元だけが見える――恐ろしくもファンタジックな視点が印象に残ります。

 三日月と言えば「天の川桂の舟に棹ささば川水いかに美はしからむ」の歌もありました。天の川だから空、そして桂というからにはやはり月、舟というからには三日月でしょう。地平線を境に、天上には天の川、眼下には現実の桂川、というのもありでしょう。ちょっとロマンチックすぎるかもしれませんが、でもやっぱりこういう方が二十歳らしいと思ったりもしました。
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 『某』マイナス2号 矢野目源一『揺籃』 『某』マイナス2号 矢野目源一『揺籃(ゆりかご)』


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